ボランティアサークル「ビーンズ会」

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偉大なる父金一 炭焼き名人だった

2009-04-17 14:13:29 | 昔のこと
夕べ子供が見ていた教育テレビの[にんたま]で炭焼きのことをやっていたので、ふと父のことを思い出した。
私が生まれた頃(私はS33生まれ)父(と言うより我が家)は、炭焼きをやっていたそうだ。
盆と正月それに年に2度の集落のお祭りには、必ずと言っていいほど床の間に高さ10センチほどの小さな優勝カップを飾っていた。押入れの奥に大事にしまってある銘の入った箱から出し、乾いた布で入念にそしてやさしく、まるで自分の疲れた体をなでさするように磨いていた。それを眺めては満足満足げな顔をする父。
小学1年か2年のある時、カップを磨く父を見ていた私に「このカップは3年連続優勝しないともらえないものだ」と自慢げに話してくれた記憶が、頭の隅っこに残っている。
銘に何が書いてあるか分かったのは、私がもう少し大きくなって、刻印されている漢字が読めるようになってからである。確か 雄勝郡炭焼品評会 昭和31年、32年、33年優勝 こんなことが書かれてあったように思う。今は実家と疎遠になっているので確かめることが出来ないのが残念だが・・・。
当時は炭焼きで生計を立てている、農家が多かったようで、数多の出品の中から、父の焼いた炭が優勝したのだからすごい。3年連続で優勝したのだからもっとすごい。
私が中2の秋、初めて父、母と一緒にきのこ採りに出かけた。
わらび採りなどは何度か行ったことがあるのだが、きのこ採りはそれまで連れて行ってもらえなかった。
朝5時出発。天気はと言うと、曇り。若干霧もある。一般道から山道に入る。最初から上りである。ただ黙々と上る。父が時々、ここは「何何」と言うところ、と地図にもならない地名を教えてくれた。細い山道は両側から草や雑木が行く手を阻むように生い茂っており、朝露で上から下までかなりびしょびしょである。それでも父と母に置いて行かれまいと、必死で後についていく。途中、朽ちた立木にきのこが群生していたが、あれは「ツキヨダケ」と言って食べられないきのこだと教えられたり、山のことをいろいろ教えてくれたようだが、歩くのに必死の私にはほとんど記憶が残っていない。
途中5分ほど休憩して歩くこと3時間、父が急に歩きを止め私を待った。私が父の元に着くと、ここで昔炭焼きをやっていて、これが炭焼き窯の後だと指差した。
そこには石の瓦礫に、コケが生しており、ところどころに煤けた石肌を覗かせていた。このコケは炭焼きをやめてからの年月を物語るようだった。
結局きのこの採りのいろはは、母と一緒に行動して教えてもらったのだが、ただただきのこ採りは大変だった記憶しかない。
昔家には大小2種類のソリがあって、大きいソリは堆肥運び用、小さいソリが炭や薪などを運ぶものだと教わったことがある。小さいほうが頑丈作られていた。あの3時間も掛かるところから、炭俵を一杯積んで運んでくるのだから。
それにしても、父は偉大であったと今も思う。
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