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日本人の自然観の回復・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-10-08 09:43:51 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:震災と天罰----科学と信仰のあいだで----から抜粋。
 日本の自然観の根底には、人言は「自然」に溶け込み、自然に即してあり、自然を超えることも作り替えることもできない、という心理がある。したがって、自然の猛威に対しては最終的には「あきらめ」しかありえない、という気持ちになる。
日本の自然観の根底には、それが「自然:じねん」と呼ばれるように、「おのずとあるもの」、「おのずと生成してゆくもの」といった意味あいが強く、人の生・死もその中にある。人の生の条件が「自然」に対峠してそれを作り替える(「創造行為の変形」)と言うよりも、「おのずから」の「自然」に溶け込み、自然に即してある、という心理へと傾く。つまり、人間は自然を超えることも作り替えることもできない。
 日本の自然は穏やかだとはよく言われるが、同時にまた、巨大地震や巨大災害もよく起きる。決して穏やかなわけでもない。にもかかわらず、それを「天災」として「天」に帰するところに、西欧とは異なつた自然観が示されているだろう。そして、おのずから成る「自然」の働きに過度に逆らった時、すなわち過度な理性主義や慢心、我利我欲に走った時、われわれは「天罰」が下る、と言うのである。(p.64-65)
今回の地震でしばしば「想定外」だつた、と言われた。・・・・この時、「危機」的事態にいたる。しかし、日本ではそもそも「危機」はありえない、とされているために、何らの対応もとれない。(p.65)
・・・
 日本におけるあまりの「危機」意識の衰弱は、一部はいわゆる戦後平和主義と深く結びついているだろう。平和主義においては「危機」も「例外状況」もありえない。戦争はない、と仮定されているからである。・・・・
 しかしもう一部は、日本人のもっている「自然観」にもよるのではないだろうか。戦争はともかく、巨大災害という自然の猛威に対しては最終的には「あきらめ」しかありえない、という心理である。
・・・・ 
 問題はそのことの是非ではなく、今日の日本人が、徹底した近代的技術主義にも邁進できず、かと言って本来の自然観・死生観も見失ってしまった、という点にこそあるのだろう。(p.65-66)
・・・・
 今回の大地震が・・・われわれが「科学」と「信仰」、言いかえれば、「自由や幸福追求」と「自然観・死生観・宿命観」のバランスを回復する契機にはなりうるはずなのである。(p.67)
(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.64-67)。

.『文明的野蛮の時代』 目次
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