備忘録

忘れないための頭の中のメモ帳

如実知見(にょじつちけん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 如実知見とは「ありのままに見る」ということです。要するに「白紙の立場で見る」ということです。

 

  • ありのままに見る、そのまま見る、白紙の立場で見るということによって、正しいものの見方ができるわけです。この白紙の立場で見る見方は、中道の見方と言ってもよいのですが、そうした見方が大事です。この如実知見が、般若につながるものなのです。

 

  • この般若の智慧によって世界や人を見る場合、どのように見えるかといえば、鏡に映すように見えてくるのです。円い鏡のなかに、自分も映る、他人も映る、世界が映る、そのような見え方をするのです。鏡に映すように見ていくわけです。

 

 

『沈黙の仏陀』 第5章 智慧とは何か


三慧③ 修慧(しゅうえ)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 三番目に「修慧」というものあります。

 

  • 修行によって得られる智慧です。この修行とは修法のことをいい、禅定によって得られる智慧なのです。

 

  • その日に学習したこと、説法で聴いたこと、あるいは真理の書籍で読んだことについて、繰り返し繰り返し、いつも学びを深め、それについて深く考えていきます。

 

  • その深く考える習慣を、禅定の状態、あるいはリラックスした瞑想状態でずっと続けていき、そうした習慣を築いていくと、その実践のなかに、智慧が習慣性にまで高められてくるのです。そのような状態が特定のときだけではない、いつも繰り返し反復して修法をしながら深い洞察をしていくなかに、智慧が習慣にまで高まってくる―これを「修慧」と言うのです。

 

 

『沈黙の仏陀』 第5章 智慧とは何か


三慧② 思慧(しえ) 

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 二番目には「思慧」というものがあります。これは思索によって得られる智慧です。

 

  • 説法を聴き、理解するわけですが、自分としてはわからないところがない、要するに、疑問なところ、不可解なところ、理解できないところがないような状態にまでとことん高めることを、「思慧」というのです。

 

  • 思索することによって、自分自身のものとすることができるのです。

 

  • その言葉の意味はいったい何なのだろうか。どういうわけで、今日、師はこういう教えを説かれたのだろうか。それを深く考え、それによって自分のものとして身につけていきます。そうすると、応用も利くようになってくるのです。

 

  • このような深い理解のことを「思慧」といいます。考えることによって正しい道理をつかむことです。

 

 

『沈黙の仏陀』 第5章 智慧とは何か


三慧① 聞慧(もんえ)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 第一のものを「聞慧(もんえ)」といいます。字のとおり、「聴いて得る智慧」という意味です。

 

  • ただ、何を聞いても「聞慧」になるかといえば、そうではなく、魂の糧になる学びをしなければ智慧にはなりません

 

  • 講演会を聴いたり、セミナーで講義を聴いたりして得られる知識に基づく力です。あるいは、CDを聴いたりDVDを観たり、また真理の書籍を読むということも、意味的には同じです。

 

  • このように、真理の知識を吸収することを「聞慧」といいます。

 

  • これによって、明らかに智慧が現れてくるのです。今まで理解することができなかったことが理解できるようになったり、今まで見抜くことができなかったことを見抜くことができるようになるなど、後天的な智慧が現れてきます。

 

『沈黙の仏陀』 第5章 智慧とは何か

 


心清浄(しんしょうじょう)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 心清浄—心を清浄にするというような観法がいちばん下にあるのです。

 

  • 澄み切りましょう。きれいになりましょう。青空みたいになりましょう」というのがいちばん初歩のレベルで、その次くらいに五停心観が来るのです。

 

  • その上に、「四禅定」などのいろいろな禅定がきます。

 

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


数息観(すそくかん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • これは「散乱心(さんらんしん)」を抑える観法です。

 

  • 「散心(さんしん)」ともいいますが、いろいろなことに心が散ってしょうがない、雑念ばかりが浮かんで集中できない、一つのことに打ち込めないということがあります。

 

  • こうした散乱心、散心を収める方法が、この数息観なのです。心がよく乱れる人の修する観法です。

 

  • 入る息(吸う息)、それから出る息(吐く息)を、「一、二、三、四・・・」と数えていくわけです。吸う息、吐く息を順番に数えながら、深呼吸をずっと続けていくのです。

 

  • こうしているうちに、だんだん心が穏やかになっていきます。これは、呼吸法の一種ですが、このように数を数えることに専念して心を鎮めていく方法を、「数息観」といいます。

 

  • 数に心を集中して、ほかのことに念いを向けないようにするのです。そうすれば雑念を断つことができます

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


界分別観(かいふんべつかん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • これは「我見」を抑える修法です。

 

  • つまり、自我が強く、驕り高ぶる人が修すべき観法なのです。

 

  • 「自分が、自分が」という自我にとらわれてしかたがないのだけれども、自分というのは十八種類の構成要素でできているのです。

 

  • 分解していくと、「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六根、感覚器官があり、これによって自分は世界と接触しているのです。その六つの器官で接し、世界をつかんでいるのです。

 

  • そして、その対象は何かといえば、「色・声・香・味・触・法」です。「色界・声界・香界・味界・触界・法界」、これが感覚器官の対象であり、これで「十二処」です。

 

  • そして、それぞれの対象と、それを見る、あるいは感じる器官との間にでてきてくる認識の世界が、「眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界」という六つの界(六界)です。

 

  • この「六根・十二処・十八界」に分解していくと、「この世で『私が、私が』と思っているけれども、この感覚器官が、この世にある様々なものに対して様々な反応をし、そして出た判断結果が、自分をつくっている世界なのだ。『自分が、自分が』と思っているけれども、自分も他人も世界も、すべて十八界のなかに納まっているのだ。そういう要素に分解していくと、この世的な存在としての自分というものは、いかに虚しいものであるか」ということに気がつくわけです。

 

  • こうして、この世的な様々なことにこだわっている自分、あるいは自我というものにこだわっている自分を抑えていくことができます。

 

  • 十八の界を分別する、分けて考える見方を、「界分別観」といいます。

 

  • こうして無常を感じ取っていくことによって、自我の高まりを抑えていくことができるのです。

 

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


因縁観(いんねんかん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 「貪・瞋・癡」の「癡」を対象とします。現代的には、愚痴や不平不満の代表のように言われていますが、もとをただせば、愚かであるから不平不満が出てくるわけです。この愚かさを断つための観法が「因縁観」と言われるものなのです。

 

  • 愚痴や不平不満が出る人というのは、結局のところ、因果の法則に無知だからなのです。出ている結果に我慢がならないわけです。不満だから、いろいろなことで愚痴が出るわけです。

 

  • 今そうなっているのは、それだけの原因があったからです。その原因を探ろうとしなさい。そうすれば不平や不満が止まります。「これが原因で、自分はこうなっているのだな」ということがわかります。

 

  • 「癡」の部分は、因果の理法をきちんと突き詰めていく、原因があって結果が今でてきているのだということを知っていくと、実は収まってくるものなのです。

 

  • 原因行為をきちんと押さえて、その結果が出ているのだと知ることを、「因縁観」といいます。

 

  • 愚痴や不平不満を抑える役割があり、縁起の理を対象とした観法です。

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


慈悲観(じひかん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 「瞋」―怒りを抑え、収めるための方法です。

 

  • ある人に対して、カーッと怒り、もう腹が立ってしょうがないということがあります。カーッと怒って、そしてさらに増幅させ、お互いに血みどろの争いになっていくわけですが、そのようなときにこの慈悲観を行うのです。

 

  • 好きな人、嫌いな人、どちらでもない人、そうした人たちに対して平等に接しなければいけないという、平等視をするのです。

 

  • みんな同じく仏の子なのだ。自分にとっては、いろいろと好き嫌いがあったりするけれども、みんな仏がよしと思ってつくられた人たちなのだ。そういう魂なのだ」と。まずはいったんゼロに戻して、平等視をしようとするわけです。

 

  • 差別することなく、あらゆる人々に、「抜苦与楽(ばっくよらく)」すなわち苦を抜いて楽を与えてあげようと観じる心が大切です。このように思おうとするだけでも、マイナスのものからプラスのものに切り替わっていきます。そうした中和作用が出て来て、心が穏やかになってくるわけです。

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


不浄観(ふじょうかん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 不浄観とは、「清らかでない、汚いものを観る」ということです。

 

  • その対象は、「貪」なのです。「心の三毒(貪・瞋・癡)」の貪です。要するに、貪りの心が多い人が修する修法、あるいは心に貪りが満ちているときに修すべき修法なのです。

 

  • その貪りのなかでも、不浄観がよく使われる場面というのは、いわゆる性欲、情欲です。

 

  • 今、自分の心は燃え盛り、煩悩でいっぱいになっているけれども、自分を燃え盛らせる煩悩の対象となっている、その若くて美しい女性、あるいは女性からみれば素敵な男性も、やがては腐乱死体のように腐り、そして白骨になっていくのだ―。どくろになった姿を心に描くことを「白骨観(はっこつかん)」ともいいますが、このように死んでいく姿、さらに死体の姿を思い浮かべる観法が不浄観です。

 

  • この不浄観を行うと、燃え盛ている炎が、たちまちにして鎮まってきます。

 

  • 執着を断つための方法として、白骨観だけではなくて、「その皮膚を一枚めくったあとの姿を想像してみろ。『女性は美しい』と言うけれども、これは皮膚の皮一枚のことではないか。この皮一枚を取った姿を想像してみれば、とてもではないけれども、美しいとは言えないだろう」ということで、そうした姿を想像するのです。

 

  • こうした方法で、死体の姿、白骨の姿を思い浮かべる、あるいは皮膚や皮を取った姿を想像する、あるいは内臓の中を想像するわけです。これを「不浄観」といいます。

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


「禅」「定」と「止」「観」

2024-02-24 00:00:00 | 

《禅》 精神と身体の調和を目指す作法

《定》 心を平静な状態にし、その対象の本質を見ること

 

《止》 心の波立ちを鎮める

《観》 集中して心の目で観ること

    ある対象に対して念いをぐっと向けていくこと

 

※「禅」とは、この「止」と「観」のバランスがよくとれた状態のこと。

 

  • いろいろな観法がありますが、「止」のほうに偏っているものや、「観」の方に偏っているもの、あるいは初心者向けから上級者向けへと内容も深まっていくわけです。

 

  • 初心者向けだと「止」のほうが強いのですが、上級者向けになってくると、だんだん「観」のほうが強くなります

 

  • 自分の心の内を見つめるのにも段階があって、深くなればなるほど、いろいろなところまで踏み込んでいけるようになっていきますが、初心者は、まずは雑念を払って、心を鎮めるところから始めるのが筋なのです。

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観