備忘録

忘れないための頭の中のメモ帳

霊的に成長する程、多様な見方ができるようになる

2024-02-28 00:00:00 | 
  • 「いろいろな見方ができる」ということ自体、「私たちの霊格、人格が進んできている」ということなのです。

 

  • 霊的成長が高まれば高まるほど、いろいろな角度から物事が見えるようになってくるのです。

 

  • ただ単に多様であるだけでは駄目です。多様な認識は必要ですが、多様な認識が多様な結果だけに終わってしまったならば、「そこには何らの霊的努力がなかった」ということなのです。

 

  • 「こういった見方もできる。ああいう見方もできる」と、さまざまに考えた上で、「では、現在ただいまの自分の仏性の許す限り、霊性の許す限り、全身全霊の判断として見て、どう結論づけるか」ということを出さなければいけないのです。これを回避してはならないのです。

 

『真説・八正道』 第2章 正見


正しく人を見るための判断基準【正見】

2024-02-28 00:00:00 | 
  • では、「他人を見る」「自分を見る」ということの正しさは、どこに力点を置いて捉えなければならないのでしょうか。どういうところに注意して見なければならないのでしょうか。

 

(1)

  • 他の人を見る際の判断基準を述べると、第一段階においては、「目に映った他人の姿」を情報として客観的に捉えることが大事です。

 

  • 第一段階においては、主観を交え、それを判定しようとしてはなりません。まず客観的に見るということです。どういう人となりであるか。どういう行為であるか。どういう表現の仕方であるか。どんな表情であるか。これをまず客観的に捉える必要があります。

 

  • このときには、できるだけ「無私」であることが大事です。私心を入れないで、まず観察をする。この観察が第一段階です。

 

(2)

  • その次にあるのが、「自分の目に映じたその人の姿を、自分はどう感じるか」ということです。まず、客観的にその姿を見、その次に、「それを自分はどう感じるか」を知るのです。

 

  • その人のありようを何らかの感情を持って眺めるはずです。この感じ方、「自分はどう感じたか」ということを知る必要があります。

 

(3)

  • そして、第三段階は、「自分が感じたその姿は、相手の立場に立ってみたら、どうなるか」ということです。

 

  • 例えば、自分はその人を「きつい人だな。厳しい人だな」と見た。しかし、こういう見方について、その人の立場に立った意見を聞かされたら、どのように感じるだろうか。自分の見方を、その人は「正当だ」と思うだろうか。「半分ぐらいは当たっている」と感じるだろうか。「まったく当たっていない」と感じるだろうか。

 

  • こうしたことを推測し、忖度する必要があるのです。

 

  • この推論をしてみるだけで、「自分とは意見のズレがあるだろう」と思える人がいることに気づきます。

 

  • ピッタリと一致することもあれば、まったく外れてしまうこともありますし、ある程度、重なっていることもあります。

 

(4)

  • こうして三つの見方で見た映像を通過した上で、四番目にしなければならないことは、「仏法真理の基準から見たときに、自分が見た相手の像の解析、印象と、相手の立場を想定したときの相手の像の印象と、どちらが正しさに近いかを考えることです。この両者を仏法真理の立場において考えてみる必要があるわけです。

 

  • この「仏法真理の立場において考える」という作業に、みなさんが日頃勉強している仏法真理の知識が役に立ちます。

 

  • 例えば、「こうしたタイプの人に対して、高級諸霊はどのように考えていただろうか。また、自分がこういう人から受けた印象、自分が思ったことに対して、どのように理解せよと言っておられるだろうか」と考えてみる必要があります。

 

  • 点検の結果、お互いにまったく違うように見えているものについては、それをどこかで一致させる必要があります。この作業の部分が本当の反省です。

 

(5)

  • 四段目の「仏法真理の基準に照らして、あるいは仏法真理の知識に照らして見る」ということもなかなか困難な部分はあるので、そのときには、もう一つ違った方法があります。

 

  • それは何であるかというと、「心を空しゅうして、神仏と心を通わせる気持ちで、神仏の心に通じる気持ちで、静かに自分の思いと相手の思いを見てみる」ということです。

 

  • 空しく、まったく利害というものを放下し、そして、執着というものを去って、自分のあり方、他人のあり方などについて見てみるのです。

 

  • こうしたときに、例えば、自分の受ける相手の印象が悪かったとしても、「実はとんでもない考え違いであった」と気づくこともあります。「相手の立場の方がやはり正しかった。そのように見れたら、相手は『不当だ』と思うだろうけれども、そう思うほうが正しい」ということもあるのです。

 

 

『真説・八正道』 第2章 正見


自他の姿は合わせ鏡

2024-02-28 00:00:00 | 
  • 「いろいろな人を正しく見る」ということと同様に難しいのが、「自分自身を正しく見る」ということです。

 

  • これは、「他人を正しく見ることができない人は、自分自身をも正しく見ることができない」と言うこともできます。あるいは、「自分自身が見えない人は、他人を見ることもできない」と言い換えることもできます。

 

  • 真に自分自身を知らぬ人は、他人を知ることもできません。

 

  • それは、「自分自身の中に神の子、仏の子を発見できなかった者は、他人の中に神の子、仏の子を発見することもできない」ということと同じです。

 

  • また、他人の中に神仏の心に反する心を見ることのできない人もまた、自分の中に神仏の心に反するする姿を見ることができません。

 

  • したがって、「他を見る」ということと、「自己を見る」ということは、合わせ鏡を見ているようなものであり、自と他の両方を見て初めて、本当の姿が見えてくるのです。

 

  • 自と他はまさに、合わせ鏡なのです。

 

  • 「他人だけが見えて自分が見えない人」もいなければ、「自分だけが見えて他人が見えない人」もいません。両方が見えなければ、「本当の自己像」「本当の他人像」「本当の世界像」は決して浮かんでこないのです。

 

 

『真説・八正道』 第2章 正見


真説・八正道

2024-02-28 00:00:00 | 

【改訂・新版まえがき】

  • 原著は、今から三十一年前、著者三十二の折に、当時、西荻にあった幸福の科学道場での、四回連続の講義がもとになっている。

 

  • とても現代的で、初心者にも分かりやすい内容だ。

 

  • 生・老・病・死の「四締」と「八正道」が、釈迦仏教の、中軸と思われる。簡単には「四締・八正道」とよばれる。この後に「中道」の境地が生まれ、「智慧」が得られると考えられていた。

 

  • 本書では原本の分かり易さを生かしつつ、折々に三十一年後の教団のありようと、根本仏教的思考を加味した。一層、魅力的な形で、世に問えることをとてもうれしく思っている。


2020年5月30日

 

 

【改訂・新版あとがき】

  • 本書では、原著の八正道の順序を、伝統仏教的な順序に並びかえた。

 

  • 具体的には「正思」「正語」「正業」といった順に戻した。

 

  • 今世では、自分自身が「正語」の悟りから入ったので、前著ではそのようにしたのだが、釈尊の八正道と同じ順序にしておいたほうが仏教を学ぶには良かろう。

 

  • また、講義時点では、商社マンを辞めて二年半ぐらいだったので、ややビジネス的な解説が多かった。

 

  • それゆえ、今回は、章の終わりに、仏教的な要点解説もつけ加えておいた。勉強が進んでいる方は、こちらも重視して下さるとよいと思う。

 

  • 現代人には「八正道」は難しいと思うが、私の現代の気持ちを込めて、『真説・八正道』として改めて世に問うものである。


2020年5月30日


失敗する人が一定の率で出ることで「法種」ができる

2024-02-28 00:00:00 | 

源頼光

  • 一定の比率でそういう人(宏洋氏みたいな人)が出てくることで、「法種」ができて、あとは、誰について説いたものかは分からなくなって。まあ、それでいいんじゃないですか。

 

  • 釈尊だって、一緒に生活している人のなかで、まあ、みんな悟りたくて来た人たちなんだろうけどね、現実は、問題がいっぱい起きて、そのつど法が説かれているので。

 

  • 誰のために説いた法かは分からないんだけれども、そういうことで法が説かれるので。全部が‟ピッカピカの善人”でもいけないんじゃないでしょうかね。

 

『源頼光の霊言』 第2章 

失敗する人が一定の率で出ることで「法種」ができる


妖魔の特徴

2024-02-28 00:00:00 | 

源頼光

  • 妖魔はね、妖怪的特徴を持ちつつも、明らかに目的性を持って、「破壊・崩壊」を狙っている。だから、妖魔は、必ず「人の破滅」を狙っていることが、やはり基本的。基本は「破壊」ですね。

 

  • 単に攻撃的な鬼みたいなものではないんですよ。「誘惑、妖艶さ、自分に対する愛や尊敬、ほめ言葉、持ち上げること」、こういうものを求めているんですよ。

 

  • だから、妖魔の特徴は、「自己愛の塊」なんですよ。その意味で、天狗と似ているんですけれどもね。わりに‟親戚関係”にはあるのですが、自己愛なんです。妖魔というのは、必ず自己愛で。

 

  • 妖魔は、その自己愛を求めて、人から称賛とか、ほめ言葉を求めるけれども、「それを拒否された場合や、願いが叶わなかった場合は、相手に取り入って崩壊させる、破壊する」という傾向があります。

 

  • 自分の自己実現が叶わなかった場合、天狗みたいに自滅するのではなくて(天狗は、自己実現が叶わないと自滅して転げ落ちるんですが)、妖魔の場合は自分を見破たり、自分のハニートラップを見破ったり、自分の色気とか噓とか、いろいろなもので人を引っ掛けようとしているものを見破る者に対して、「復讐」をするのが妖魔の特徴で。

 

  • 結局、「自分が神仏になり代わる」わけですね。天狗とか妖魔とかは、「自分を神仏として崇めさせようとする傾向」が強くて、そして、気に入らないと罰を与えるみたいに、相手に復讐したり、相手を陥れたりすることが多い。

 

『源頼光の霊言』 4「天狗・竜神・妖怪・妖魔」の特徴について