蟷螂の独白

世に背を向けた蟷螂です。喜怒哀楽を綴って19年モットーは是々非々の団塊世代です。

14年か・・・

2022-01-10 21:20:13 | 徒然

同窓のH氏から年賀状をもらった。

彼は仕事で渋滞していた首都高の、箱崎インターを登っていた時、脳出血を起こして日大病院へ運びこまれて一命をとりとめましたが、右半身が不随になりました。

車いす生活です。

字も書けないので年賀状は奥様の代筆です。

『あれから14年が経ちました』

とあります。

えーーー。

もう14年か・・・

関係者の話では、仕事で箱崎のインターチェンジに差し掛かった時に脳出血し、意識を失ったそうです。

ゆっくりと前の車にガツンと当たり、運転手が出てきてH氏の異変に気付き、直ぐに救急車を呼んで大学病院へ搬送されて開頭手術を受け、一命を取り留めました。

普段から高血圧気味でしたが、高校時代は生徒会長!

バレー(ボール)部に所属し、厳しい練習にも耐えていたので、健康には自信があったのでしょう。

血圧が高いと言われても近所の町医者で降圧剤を処方されるだけ、一度『人間ドッグで調べてもらった方がいいよ』と忠告した矢先のことでした。

外見はおっとりしているタイプです。

カッとするタイプではなかったのですが、そういう人ほどストレスをため込むのでしょう。

直ぐにかッとして暴言を吐く人ほど、その都度ストレスを発散しているので、血管が切れるということは無いのかもしれません。

ただしカッとした瞬間に切れることもありますが・・・

神田鍛冶町で医家向けの印刷工場を営んでいた蟷螂の母方の祖父は、昭和十六年に脳出血で死去しています。

なので蟷螂は母方の祖父の顔を知りません。

写真も見たことが無いのは少し異常ですが、とにかく太平洋戦争を知らずに死んだことは、祖父にとっては幸せだったのでは?

但し、昭和十六年に死んだと言っても12月ではなく、2月でした。

12月に死んでいたら『太平洋戦争突入時に興奮し過ぎて死んだ』ということになりますが、戸籍では2月没でした。

その祖父は艶福家なのか戸籍では結婚を3回しています。

つまり、奈良女子高等師範学校国文科を卒業した初婚の祖母は、✖3の祖父のところへ嫁いだということになります。

よく父親が結婚を許したものです。

結婚を許した曾祖父は、福井の三国で開業医をしていました。

当時の町医者は羽振りのいい今とは180度違い、家は常に赤貧洗うがごとくで、曾祖父は『医者には絶対に娘を嫁がせない』という強固な意志を持ち、出入りの薬種屋から神田鍛冶町の印刷屋を紹介されたという図式が透けて見えます。

その曾祖父は結核で早逝したそうです。

寒村の町医者なので、食糧事情もよくなかったのでしょう。

医者代は『米』だったから、飢饉のときは収入ゼロ?

そりゃあ娘は東京の実業家?に嫁がせますね。

そして祖母は5人の子持ちに。

なのでシングルマザーで太平洋戦争を生き抜いたことになります。

明治生まれの祖母は信念の人でした。

小学生の頃、三鷹台の祖母の家へ行くと朝はトーストとレモンティーにチーズ2枚。

すぐ裏手には林があり、庭には大きな栗の木がりました。

でも林の先には行かないようにと、釘を刺されていました。

かなりキツく。

高校生になった頃、林の先辺りがとある小説家(太宰治)の情死事件の現場だと知りました。

祖母にとってはあまりいい記憶ではなかったようです。

祖母の家の前には芝生のある邸宅があり、進駐軍の将校一家が住んでいると聞かされました。

吉祥寺へ向かうと畑の端に『あんこちゃん』の家があり、驚いたことに夏などは反対側の空が透けて見え、ちょこんと縁側にあんこちゃんが座っていました。

夕方などは抒情的に見えましたっけ。

 

脳出血から話がだいぶ逸れましたが、とにかく半身不随になるほどの卒中で倒れても命さえあれば問題なく生きていけるということです。

但し、義母のように施設で転んで頭を打ち、脳出血を起こして脳死状態のまま6年以上生きることもあるので、O型の、出血傾向の人は血圧管理を十分にして、できれば一生に一度だけ脳ドッグを受けておくといいと思います。

特に近親に脳出血で亡くなった人がいる場合はなおさらです。


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