浮世があまりに情けないので丸山先生のオンラインサロンに参加して早7か月かな?
今日はことの外楽しかった。
なによりもサファリラリーのことを話していただいたことが興味深かった。
先頭車両よりも夜中の内に前に出て、翌日暗いうちから先頭車を待っていると、あたりになにか気配が漂って、明るくなるとその気配が原住民が槍を構えている姿であり、彼らも超ハイチューニングされたラリーカーを見るために何十キロも草原を歩いてやってきたのかと思うと、複雑な気持ちになったそうです。
また、野中の一軒家の協会から、現地ミュージックにアレンジされた讃美歌を聞いて、魂を揺さぶられたそうです。
こういう話を聞きたかった。
ようやくオンラインサロンも佳境に入ってきた感じです。
先生は文学と小説を完全に分けていて、文学は相手に書き手の気持ちが伝わってはいけないというのが持論だと理解しました。
なるへそ、日本語を一旦崩して、新たに組み直すことが、日本の真の文学であるということですね。
ハルキを『あのひと』と切って捨てるところなんざ、先生しかできません。
要するに文学は文字通り『文を学ぶ』ものであり、小説は『小さな説話』であるということです。
小さな説話好きな蟷螂にはなかなか理解できませんが、大卒当時に書いていた『ストーリー無き文章』が文学であり、40歳を過ぎてから書いていた起承転結にこだわったものが小説だということです。
ということは、小説家は文学者になれないし、文学者は小説家になれないというところでしょうか。
蟷螂の遠縁に、文学全集の監修者に名を連ねている人がいました。
そのひとの全集を買っては見たものの、まったく面白くなく、田原町の事務所の棚に、ウイスキー瓶と並べてに置いてありますが、その存在をある意味納得しました。
読者を楽しませるのは小説の役目、自己研鑽をするのは文学。
新しい文学はこうして出来上がっていくのでしょうが、まだまだ過渡期にあると思います。
小説のように見せる『文学』とは何でしょう。
阿部公房の作品が『文学』に近い小説のような気がしますが、次の機会に聞いてみようかな。
蟷螂はソリッドな文章が大好きです。
つかみどころのない、ぐにゃぐにゃした文章は嫌う傾向にあります。
また、過去を振り返らないという先生の『お言葉』も同意です。
蟷螂は歴史がちょっと…苦手です。
最先端の、未来志向の文章を書く。
現代詩ともちょっと違った、哲学とも距離を置いた、そういう文章が書けたら本望です。
今日のオンラインサロンはよかった。
昔の話だったけど。