帰宅してからも地獄のような日々が続きました。
まず、感染性心内膜炎を想定して、海外へ大量の抗生物質を個人輸入でオーダーしました。
熱は下がったものの、夜になると足が重くなり、床についてもなかなか寝付けません。
スマホであれこれ検索していて、これは重要だと思える記事をブックマーク。
この段階では、状況によっては開胸手術もありと、半ば観念しかけていました。
慶應病院ではMICSという、右わきを5センチほど切ってそこから内視鏡で手術を行う方法があるようですが、伝手がありません。
また、紹介受診しても手術まで半年くらい待たされたらどうなるかわかったものではありません。
感染性心内膜炎ならば手術を待っている間に死んじゃう可能性だってある。
なので、風邪の際に処方された抗菌薬をチビチビなめながら、11日までを過ごすことになりました。
勿論その間に、家庭用心電図計も取り寄せます。
そして歯医者に対する訴訟の準備です。
インフォームドコンセント違反の上、排膿の無い、やらなくてもいい歯肉焼灼をされたのですから誤療も視野に入れます。
酒を飲む気にならず、飲んでも酔わないしだいいち味覚が無くなっていたので食欲も出ない。
あっというまに70キロを切り、67キロまで急降下。
腕や脚の筋肉も衰えます。
それでも検査した結果、手術は見送りましょうという診断が下ることを、その時はまだ心の片隅で淡い期待を抱いていました。
様々なブログで、『抗生剤を点滴されて一時落ち着いた』とか、入り込んだ菌が特定できれば2週間程度入院し、それに見合った抗生剤で叩いてから手術の計画を立てるという記事に励まされ、取り寄せた抗生剤の量が増えました。
『J大の先生が診てくれたらいいんだけれどなぁ』
その段階ではJ大は命綱です。
たとえ今診ている医者が門前の小僧並みでも、いざ手術となれば大先生が出てくるに違いない。
いやいや、大先生が診れば、『こんなもの病気の内に入らん』と言ってくれることを、お目出たい頭で祈っていたのです。
そして執行猶予のうちにと深川不動尊にもそっとお詣りします。
護摩札は、暮れの内に郵送に切り替えてもらっていましたので改めてお詣りしました。
心臓財団にメールで質問したりアスクドクターに質問したりして、こちらも理論武装は怠りません。
そうこうしているうちに11日が早々とやってきました。
心エコーは救急搬送時を含めると2回目です。
救急搬送時の心エコーは明るい部屋で行われましたが、今回は薄暗く狭い部屋にあるベッドに横たわります。
検査技師は女性でした。
ベッドに横になると蟷螂の胸にジェリーを塗ります。
女性検査技師がゆっくりと左胸に当てたプローブを動かします。
『ハイ、吸って・・・ハイ吐いて~、ハイ止める』
30分ほどで心エコーは終わりましたが、技師はひと言も発しません。
まるで医者から箝口令でも出ているのかの如くです。
納得がいかないまま、診察室の前で待ちます。
勿論そのとき蟷螂はスマホにマイクを接続して、録音のスタンバイをします。
今後のセカンドオピニオンや訴訟時の証拠になるからです。
番号が掲示されたのは、小1時間ほど過ぎた頃でした。
スマホのスイッチを入れます。
扉の前で一度『マーク』とささやきます。
扉を開けるとやはり若い医者がいます。
なぜかウキウキ感が見て取れます。
『検査の結果、僧帽弁閉鎖不全であることがわかりました』
机の上に医者は藁半紙(質の良く無い紙)を広げて手慣れた手つきで丸を書き、中心に十字を書いて四つに区切ります。
『心臓には四つの部屋があり・・・』
ネットで仕入れた情報以下の説明が始まります。
早く感染性心膜炎の情報が知りたかったので、『だいたいネットで調べてきた』旨を伝え、『感染性心内膜炎』と『万一手術をしなければならなくなった時は胸を大きく開く手術しかないのか』と核心を突く質問をします。
『3度なので薬で同行できるレベルではない』と医者は言い、『ネオコードという方法もあるけれど一般的ではない』と続けました。
その答えを聞いた瞬間、蟷螂は愕然としました。
『感染性心内膜炎であるかどうかは、更に大きな病院で調べなければわからない』とも言います。
『J大学に紹介状を出すので、そこを受診するように』
『え・・・ここへはもう来なくていいの?』
たしかにJ大学は一見さんお断りの雰囲気のある、超メジャーな医大です。
まるで京都のお茶屋みたいなイメージで、超高貴なお方もそこで心臓の手術を受けていることも知っています。
『私はこちらに派遣されていますが、J大学にも籍があり、J大学の私にここの私から紹介状を書くという手順になっています』
複雑なシステムを一瞬理解できません。
頭の中がモヤモヤしながら下町の総合病院を後にしました。
つづく