さて3章のベルゼブル論争で終わりの方、 28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 について一言言っておきたい。
主は、ハッキリ言っておく。すなわち、アーメン! と言われるのです。先ず罪が赦される。アーメン!。神を汚す言葉も赦される。アーメン!(不思議ですね)。更にマタイにおける並行記事では「人の子に言い逆らう者も赦される。アーメン!」。十字架のキリストに逆らっても尚、赦しの恵みは追い迫ってくる。だが、聖霊を汚す罪は赦されない。何故ならイエス・キリストにある赦しを私たちのものと確認してくださるのは、聖霊の力によるからです。それ故、聖霊への冒涜は、赦しとの絶縁を来させるのです。人々が十字架の恩寵以前に陥っていた「父なる神の赦しからの切り離し」を自ら承認してしまう事なのです。それは律法学者に発せられた警告です。だが、キリスト者はここに、更に厳重な警告を聞かねばなりません。何故なら、Ⅰコリント12:3に言うように「イエスは主である」との告白をさせる御霊が私たちに与えられており、ヘブライ人への手紙10:19に言うように、「恵みの御霊を受けた後もこれを侮る者には、更に厳しい刑罰が望む」からです。
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第1の復活に当たるのは悪人善人全てなので、キリストに逆らっても、現代へ転生時に原罪は消失する。つまり赦しの恵みである。
だが、聖霊を汚す罪は赦されないのは、キリストの死からの復活の意味を教えてくれるのは聖霊だからである。
それ故、聖霊への冒涜は、罪の赦しとの絶縁であると上記に書かれている。なかなか良い考察です。
更にイエスキリストは主であり神であると、理解させてくれるのは聖霊であると、それを否定して聖霊を侮る者は、永遠に許されないというわけだ。
可能性の話としては俺として70%ぐらいかなと自分では思っているが、
仮にそうだとしたら、とんでもない事をしたということになる。
それの実証を批判してくれた人はしてくれるだろう。
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