この建物,なにやらひとむかし前のヨーロッパの街のように見えないこともない。実はここは慶應義塾日吉校舎。渋谷から20分ほど、日吉台と呼ばれる高台に位置している。この高台という地形がこの校舎の運命を決めた。
現在は慶應義塾高校として使われているここの校舎は、1934年に建てられたもの。当時は大学予科校舎として使われていた。80年近くたっていると感じさせないしっかりとした作りだ。
10年後の1944年、勤労動員や学徒出陣で学生の少なくなったこの建物を海軍軍令部や人事局が移転、校舎や,寄宿舎を軍施設として使用した。
さらにこれら施設がある高台一帯に地下壕を張り巡らせた。その距離2・6キロ。ここに連合艦隊司令部などが入り敵国情報を収集分析していた、戦艦大和の最後の通信もここで受信していたそうだ。
その地下壕の見学会があり参加してきた。日吉キャンパス内には3カ所の地下壕があり、現在見学ができるのは1カ所の一部のみ。上の写真はその入り口。
地下はもちろん真っ暗。懐中電灯の明かりを頼りにおりて行く。カマボコ状に掘られた地下壕は60年以上経過したとは思えないほどしっかり作られ,コンクリートの厚さは40センチ以上。通路には下水が完備されきれいに管理されている。中は1年を通じて15、6度と気温は安定している。
天井には、当時としては珍しい蛍光灯の照明が付けられ,昼夜を徹し2、3百人の人が働いていたという。
向かい側の丘,日吉が丘公園にも地下壕が掘られたが,完成したのが1945年8月14日という何とも皮肉な地下壕となった。現在はすべての入り口がふさがれている。
終戦後これらの施設は米軍に接収され,日吉は米軍の街にもなった。