【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールの軛( 追稿 )= 01 = 

2015-10-16 17:54:40 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ モンゴルのルーシ侵攻 ◎○

★= タタールの軛(タタールのくびき) =★

 13世紀、分領制の時代に入っていたルーシは東西からの二大勢力による厳しい挑戦を受けることとなった。この世紀の初頭には未だキリスト教以前の異教の信仰にとどまっていたバルト海沿岸地域に、ドイツ騎士団(チュートン騎士団)をはじめとするカトリック教徒のドイツが北方十字軍および当方植民の活動を開始し、同じキリスト教徒ではあるが正教徒であったルーシの人びととの間に衝突が起こるようになった。 ドイツ人の侵攻は、1240年と1242年の2度にわたってノヴゴロド公国の公子アレクサンドル・ネフスキーによって阻まれ、その東進はエストニアでとどまり、カトリックによる北ルーシ侵攻は失敗した。

 その一方で、ヨーロッパ大陸でも最も東に位置し、常にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシは、1223年、すでにモンゴル帝国の最初の襲撃を受けていた(カルカ河畔の戦い)。 これは、初代皇帝チンギス・ハーンの治世において、ホラズム遠征の一環としておこなわれたもので、このとき、モンゴル軍は南ルーシ諸侯と南ロシア草原のテュルク系遊牧民キプチャク(ポロヴェツ族)の連合軍に大勝したが、征服はおこなわなかった。 このときの遠征は中央アジアを標的としたものであり、キプチャク高原やロシア方面の占領を目的とした遠征ではなかったため、モンゴル軍はすぐに東方に帰還したのである。

 モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイは、1235年、帝国の首都カラコルム(現在のモンゴル国・アルハンガイ)に王侯・貴族を招集してクリルタイを開催し、西方への大遠征を決定した。 チンギス・ハーンの長男ジョチの采領(ウルス)は帝国の西に割り当てられていたので、征西軍の総指揮官にはジョチの次男バトゥが任じられた。 1236年、バトゥ率いる大遠征軍は川や沼沢の氷結する冬の到来を待って東ヨーロッパへの大侵攻を開始し、ヴォルガ川中流域のヴォルガ・ブルラールを征服した(モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻)。

 モンゴル軍は続いてルーシへ侵攻し、1237年から1238年にかけてリャザン旧リャザン)、ウラジーミルウラジーミル・スーズダリ大公国)、トヴェリコロムナなどを次々と占領して北東ルーシを征服、さらに1239年から1240年にかけては南ルーシに転進し、キエフ・ルーシ(キエフ大公国、正式な国名は「ルーシ」Русь )の首都キエフを攻略して破壊し、南ルーシの多くの都市や農村を荒廃させた。 ルーシ諸国は恐怖の嵐に慄くことに成った(バトゥの大西征)。

 モンゴル軍の征服は、北西に離れたノヴゴロド公国をのぞくすべてのルーシにおよび、1240年までにはルーシの住民ほとんどすべてがモンゴルへの服属を余儀なくされた。 1241年、バトゥはハンガリー平原(現在のハンガリー一円)や現在のポーランドを侵略したところでオゴデイ死去の報を聞き、カスピ海北岸まで引き返してヴァルガ川下流に滞留する。 この西征により、バトゥを家長とするジョチ家の所領はカザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にまで拡大した。 ルーシの人びとは、キプチャク族などテュルク系遊牧民が自身よりも東方に本拠を置くモンゴル系遊牧民たちを「タタル」(古いチュルク語で「他の人びと」)と呼びならわしていたのにならい、ルーシを征服したかれら東方遊牧民を「タタール」(漢字表記は「韃靼」)と呼んだ。

タタールTatar)は、北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系テュルク系ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族名称である。 日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。 バトゥの大西征後にタタルと自称する人々はモンゴル部族に従属してモンゴル帝国の一員となり、ヨーロッパ遠征に従軍したため、ヨーロッパの人々にその名を知られた。 ヨーロッパではモンゴルの遊牧騎馬民族が「タルタル(Tartar)」と呼ばれるようになり、その土地名も「モンゴリア(モンゴル高原)」という語が定着するまでは「タルタリー」と呼ばれた。中でもロシア語の「タタール(Tatap)」はよく知られているが、ロシアはヨーロッパの中で最も長くモンゴル(タタール人)の支配を受けた国であり、ロシア人にとって”タタールのくびき“という苦い歴史として認識されている。=

 ジョチ家の所領(ジョチ・ウルス)は、こののち次第に緩やかな連邦へと傾斜していくモンゴル帝国内で自らの自立性を強めていったため、キプチャク・ハン国(金帳汗国)とも呼ばれる。 こうしてノヴゴロドを含む全ルーシはモンゴル帝国の支配下に組み入れられ、ルーシの人びとはモンゴルへの貢納が強制された。 このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールのくびき」と呼んでいる。

 「タタールのくびき」は、モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も相次いでモンゴルからの自立を果たすまでの200年以上にわたって続いた。 ロシアはその後16世紀初め頃までに「タタールのくびき」を完全に脱するが、その後もクリミヤ半島やヴォルガ川流域、シベリアなど広範囲にひろがるテュルク=モンゴル系の人々を「タタール」と呼んだ。 やがて、ピョートル1世(大帝)によって18世紀前半に創始されたロシア帝国は、この世紀の末までにはタタール諸民族居住域の大部分を支配下に置くことになる。

 

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