☆★ 1897年 - 『ニューヨーク・サン』に社説「サンタクロースっているんでしょうか?」が掲載される。☆★ 国技館の土俵の屋根を支える柱が無くなり、空中浮揚し始める(1952年)。☆★ こち亀連載開始(1976年)。連載初期から現実の警察官とは乖離していた。どっちが警察官としてふさわしいかはお察しください。
本日記載附録(ブログ)
インカ帝国では、政府によって労働賦役が課せられていたが、その見返りとしてインカ主催の饗宴が執り行われていた。 饗宴では、織物などの他、チチャが与えられ、重宝されていた。 依って、チチャはアンデス中に最大限広がっていった。
国家による酒販売の独占形態であり、チチャの利用は、饗宴などを通して集団間の摩擦を和らげる働きがあった。 支配者には儀礼用としても非常に価値があった。 時には、幻覚剤を混ぜ、飲酒者の死的恐怖・肉体的苦痛を取り去り、催眠的暗示を施すのに用いた。
このように、チチャあるいはその原料となるトウモロコシは、アンデス文明の形成過程において、けっして欠かすことのできない重要なものであった。 それゆえ、品種改良で膨大な種類のトウモロコシが生み出された。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
一千年前の古代ペルーを支えていたチチャ。 政治的政略・民意洗脳の酒=チチャ= ……
◇◆ 幻覚剤を混ぜた酒で人心掌握、一千年前のインカを支えていたチチャ =1/5= ◆◇
幻覚剤を混ぜたアルコール飲料が生む友好的でくつろいだ感情が、1000年以上前の南米に栄えた帝国を支えていたかもしれない。そんな論文が1月12日付けで学術誌「Antiquity」に発表された。
南米のアンデス地方には、今に伝わる「チチャ」というビールに似た飲み物がある。このチチャがワリ帝国の文化で果たした役割は、以前から考古学界で認識されていた。ワリ帝国は、西暦600年から1000年頃まで、ペルー沿岸部とアンデス山脈南部の大半を支配していた国家だ。
この国の権力者たちは、近隣の有力者を招いて盛大な宴会を開き、チチャをふるまって政治・経済面での連携を強化していた。
今回、ワリの「醸造所」で幻覚作用がある植物の残留物が発見されたことから、ワリの政治力をさらに強化するために、アルコールと幻覚剤という2つの作用が使われていた可能性が示唆された。
この残留物が発見されたのはペルー南部、ワリ族の村があったキルカパンパ。このあたりは非常に乾燥した地域で、村が放棄される9世紀後半までの食生活の残留物が今日まで残されている。現場で考古学者たちは、1100年前のイモ、キヌア、ピーナッツに加え、驚くほど大量のベリーのような果実を発見した。
これはコショウボク(Schinus molle)の実で、ワリ帝国では、アルコール度5%ほどのチチャを醸造する際、頻繁に使用されていた。
ところがキルカパンパでは、チチャを造るためにコショウボクの実を水に浸したり煮たりした残留物から、向精神作用があるビルカ(Anadenanthera colubrina)の種子が見つかった。
論文の筆頭著者であるジャスティン・ジェニングス氏によれば、古代の南米でビルカが幻覚剤として使用されていた事実は考古学的証拠によって確認されているが、ビルカの使用は通常、政界や宗教界の有力者に限られていた。同氏は、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーで、カナダのロイヤル・オンタリオ博物館の考古学者。ナショナル ジオグラフィックは、今回の調査を支援している。
9世紀半ば、北方にあったワリ帝国の中心地から、少数の家族がキルカパンパに移住してきた。この地方でワリ族以外のコミュニティーと新たな同盟関係を強化するために、彼らがビルカとチチャを併用する慣習を持ちこんだ可能性がある。
そして、キルカパンパの人々が新天地で新たな友好関係を築く上でビルカとチチャの併用が有効だったとすれば、これが、ワリ帝国の政治力強化を支えていた可能性がある。
「おそらく『ビルカとチチャを合わせよう。混ぜ合わせて回し飲みすれば、皆で同じ体験ができる』という流れだったのでしょう」とジェニングス氏は言う。
・・次回は“政治力の陰に幻覚剤入りの酒”に続く・・・
⨁⨂参考資料: ワリ (1/2) ⨂⨁
ワリ(Huari)は、西暦500年~900年ごろアンデス中央高地で繁栄したプレ・インカの文化。ワリの都は、現在のペルー、アヤクーチョ県にあったといわれている。ワリ遺跡へ行く際は、アヤクーチョ市から観光ツアーが出ているのでそれを利用するのも良いが、キヌア(Quinua)(村の名前)行きのバスも遺跡の近くを通るため、利用可能である。
ワリ文化の起源は、はっきりとはわかっていない。ただし、この地域にはワリ以前にワルパと呼ばれる地方文化があったことがわかっている。
ワリは、現在のペルー沿岸部と高地部分全体に版図が広がっていたといわれているが、太平洋沿岸部におけるワリの支配が実際にどのようであったのかは、リマ近郊やナスカ地方の一部を除けば、確実なことはほとんどわかっていない。ペルー北海岸にあったモチェ文化圏との接触は様々議論されている。
かつてはワリの進入がモチェ政体の衰退を促したことが議論されていたが、現在ではこの説を否定する研究者が多い。また、ほぼ同じ時期に、アンデス中央高地南部にある現在のボリビア北部ではティワナク文化が栄えていた。
ワリでは、各地を支配するためのすぐれた建築物を多数配しており、現在のペルー共和国北部にあるワマチューコ市郊外のビラコチャパンパ遺跡や、南部のクスコ県にあるピキリャクタ遺跡は有名である。
壁を二重に巡らした、長方形の部屋状構造物を特徴とするこのワリの建築群は、ワリの支配の一つの指標として議論されているが、実際には、地域によって差が見られ、地域によっては土着の政治組織を覆うような形で支配をしていたことを示すものもあるという。
ワリ期には、壁の下に埋葬が伴われることがあった。これはアヤクーチョのワリ遺跡でも見られるし、また、クスコ郊外のピキリャクタでも見つかっている。ピキリャクタの人骨の中には、頭蓋変形が施されたものもある。
D字型をした広場を持つ建造物は、ワリ文化の建築群の特徴の一つで、儀礼の場であろうと解釈されている。ワリ本拠地やいくつかのワリの地方遺跡の中には、地下式建造物をもつものがあり、地下数メートルにまでおよぶ複雑な構造をなしている。
ワリ文化に代表される考古学遺物のうち、大型のカメやケーロと呼ばれるコップ状の土器は有名である。ワリ文化では、トウモロコシ酒(チチャ)を用いた儀礼活動が盛んに行われていたとされており、その儀礼が執り行われた後、土器を壊して土中に埋める儀礼が行われていたとされている。カメには人物像や作物などが描かれている。
ワリ期の織物も海岸地域で複数見つかっており、そこにはティワナク文化やプカラ文化と共通する「杖をもった神」の図像が描かれている。描かれるモチーフは同じものが多いが、描かれ方がこれらの文化とは若干異なっている。ティワナク文化の同じ図像に比べ、ワリ文化の図像は、ティワナクの図像とは異なった様式化がされている。これは土器に描かれている図像も同じである。
ワリ期に利用されていた帽子も見つかっており、おそらく権力者が利用していたものであろうとされているが、その特徴は4つの角を持ち上部が平らな物である。これと似たような帽子はティワナク文化でも利用されていたと言われている。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
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