【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 11月06日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-11-06 05:10:59 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ GHQ、三井、三菱、住友、安田の四大財閥解体を指令(1945年)。その後既に77年が経過しているが、何故か解体作業は遅々として進まぬばかりか図体がますますデカくなっているみたい。 ☆ 北陸トンネルが長大なロースターと化す。火種は食堂車(1972年=北陸トンネル火災事故)。 ☆ 松田優作が「なんじゃこりゃ~~~!」と言った後死去(1989年)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 21回= ◎ ◎

1956- «人類学をみんなに広めたルイス・リーキーの大発見 (1/3) »

= Webナショジオ そうだったのか! 『ナショナル ジオグラフィック』 =

……National Geographic Journal Japan 〉/ 2012年11月7日 / (Web編集部) ……

 前回は、ナショジオの新編集長(1956年以降)メルビル・グロブナーがテレビ番組の制作に乗りだす契機となったバウンティ号の発見について書きました。ほどなく、メルビルは次々と大ヒット番組を世に送り出し、探検家や科学者から新たなヒーローやヒロインが誕生します。テレビ番組制作の経緯については別の機会に書くつもりですが、今回はそんなヒーローの1人である人類学者、ルイス・リーキーをご紹介いたしましょう。

  人類学って面白いですよね~。  と、隣に座っている月曜日のメルマガ筆者の美人編集者Tに言ったら、「私けっこう苦手なんですよね」。

 どうしてか聞いてみると、ピテカンナンタラとかホモカントカとか名前がわかりにくいとのこと。なるほど、確かにおっしゃるとおり。そこは世の中の一般人にはとても紛らわしく煩雑で捉えどころの無い分野と思います。

 それでも、中の人にとって人類学はとても興味のある分野のひとつです。

 だって、人類はあらゆる生物のなかで明らかに特殊でしょう。こんなふうに、巨大な都市までつくって環境を大きく変え、果てはロケットに乗って地球を飛び出してしまう(地球の)生物はほかにいません。いや、服を着て、料理をして、家に住む「衣食住」というごく基本的なレベルで見ても、ほかの生きものからしたら十分ヘンですよ。

 地球に生物が誕生したのはざっくりいって40億年前。単細胞生物は除き、多細胞生物に限って短く見積もっても10億年ぐらいの歴史はある。

 10億年ですよ10億年。どのぐらいの時間なのか、感覚的にはまったくわかりません。その間には、無数の生きものがあらわれては絶滅していったに違いありません。それなのになぜ人間だけがオンリーワンになったのか。それはいつ、どのようにして起こったのか。雑誌を企画制作する中の人はとても興味があるのです。

 まあこんなことを考えなくても、単に自分たちのルーツを知りたいという人も多いでしょう。それだけでも十分好奇心をそそりますよね。

 ということで、人類の進化は伝統的に人類学の大きなテーマになっています。  ルイス・リーキーはそのなかでもっとも重要な発見をした人類学者ですが、それがどれほど重要だったかを説明するために、ちょっと時代をさかのぼってみたいと思います。

※補足説明 : ルイス・シーモア・バゼット・リーキー(Louis Seymour Bazett Leakey、1903年8月7日 - 1972年10月1日)は、ケニアの古人類学者。アフリカにおける人類の進化の解明に大きな貢献をした。またアフリカでの研究と自然保護のための組織の創設に中心的な役割を果たした。古人類学と霊長類学の次の世代の研究者を育てた。自然科学者としてリーキーはチャールズ・ダーウィンの見解を強く支持し、人類はアフリカで進化したと言うダーウィンの仮説を証明しようと試みた。

 ルイスの両親ハリー・リーキーとメアリー・バゼットはイギリス出身で英領東アフリカ、現ケニヤの宣教師だった。拠点は小さな小屋とテントだけだった。リーキーが幼い頃に住んでた家は土間があり、雨漏れする草葺きの屋根で、ネズミと虫がたくさんおり、暖房設備はなかった。テントの中に病院が設置され、それは次第に拡大されてのちにアフリカの女性のための女学校となった。

 1919年にリーキーはそこで民間の男子学校に通い始めた。教師の一人が銀行家になってはどうかと助言し、父の母校でもあったケンブリッジ大学に入学するための勉強を始めた。入学試験で良い成績をおさめ、1922年に奨学金を得てケンブリッジ大学に入学した。当初は父と同じようにアフリカで宣教師になるつもりだった。息子のリチャードは父について次のように描写している。

 1919年にリーキーはそこで民間の男子学校に通い始めた。教師の一人が銀行家になってはどうかと助言し、父の母校でもあったケンブリッジ大学に入学するための勉強を始めた。入学試験で良い成績をおさめ、1922年に奨学金を得てケンブリッジ大学に入学した。当初は父と同じようにアフリカで宣教師になるつもりだった。息子のリチャードは父について次のように描写している。

  「ルイスが化石発掘を決めた時20歳前半だった。その時までは父親と同じくケニヤでキリスト教宣教師になるつもりだった。」リーキーはキリスト教への熱意を友人たちに説くことと風変わりな振る舞いで知られていた。同時に進化論者でもあり、将来の自然科学者たちを友人としていた。

 1922年にイギリスは第一次大戦の賠償としてドイツ領東アフリカを獲得した。その地域でドイツ人がテンダグルと呼ばれる恐竜化石の豊富な土地を発見していた。リーキーは家族の友人から、大英自然史博物館が化石の発掘隊を送りだそうとしていることを聞いた。リーキーはそれに応募し採用された。

  1924年にウィリアム・カトラーを隊長として一行はアフリカに出発した。彼らは恐竜の完全な化石を発見することができず、カトラーが9ヶ月後に病死するとケンブリッジに呼び戻された。

 リーキーはこの経験から専攻を人類学に変え、アルフレッド・ハッドンの元で学び始めた。1926年に人類学と考古学で最高の成績をおさめて卒業した。在学中からアフリカの考古学、古生物学について講義を行い、執筆活動をし、すでに有名人であった。卒業後はアフリカで多くの遺物を採掘し、出土する人工品を体系的に研究した。

 1927年にエルメンテイタ湖近くのカンブル洞窟と呼ばれた発掘場所で、二人の夫人の訪問を受けた。一人は考古学を学んだことのあるヘンリエッタ・アバーン(フリーダ)だった。二人は夜通し話し合い、その後も交流を続けて1928年に結婚した。

 同時期にカリアンドゥシ(Kariandusi)でアシュール文化の遺跡を発見し、発掘を行った。1929年にセント・ジョンズ・カレッジで研究職を得て、エルメンテイタでの発見を整理するためにケンブリッジに戻った。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ « 人類学をみんなに広めたルイス・リーキーの大発見 (2/3) » “ を記載、続きます・・・・・

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