最近、「日本の原風景」という使いかたをよく目にする。しかし、私はそれを見て、なにか引っかかるものを感じてしまう。原風景とは、元々個人的なものではなかったのか?
「日本の原風景」といった場合は、農村や里山の風景に使われることが多いが、人によっては漁村の風景が原風景かもしれないし、あるいは炭鉱町が、あるいは都会の街並みが原風景という人もいるであろう。「日本の原風景」と一括りにされても困ってしまう。また、昔の懐かしい風景という意味でも、昔とはいつなのか。昭和なのか、明治なのか、江戸なのか、あるいは縄文、弥生なのか、漠然としていて分かりづらい。
ウキペディアでは、「原風景は人の心の奥にある原初の風景。懐かしさの感情を伴うことが多い。また、実在する風景であるよりは、心象風景である場合もある。個人のものの考え方や感じ方に大きな影響を及ぼすことがある」となっている。また、心理学における原風景とは、「極めて個人的な幼年期の記憶の中にある風景または青年期の自己形成における深層意識に貼りついた心のイメージ」(ネットから引用)とされている。
そもそも、「原風景」という言葉は、奥野健男が「文学における原風景」の中で初めて使ったものとされ、その後心理学や文化人類学、人文地理学、建築学などの立場からも論じられるようになったようだ。
それでは、奥野は「文学における原風景」の中でどう言っているのか。奥野は幾人かの作家を例にとり「これらの作家たちは、文学のライトモチーフとも言うべき鮮烈で奥深い原風景を持っている。それは旅行者の眺める風土や風景ではなく、自己形成とからみあい血肉化した、深層意識ともいうべき風景なのだ。彼らはたえずそこにたち還り、そこを原点として作品を書いている」とし、また、原風景を「作家を形成して来た時空間であり、風土であり、作家の美意識や作品のイメージやモチーフを支える深層意識的な舞台である」とも書いている。
このように、元々は全く個人的であった「原風景」だが、「原風景には、個人に固有のものもあれば、民族や風土に共通したものも存在する」という考え方もあるようだ。奥野も「文学における原風景」の中で、「ぼくにははたして日本民族が心の中に共通して持っている原風景のようなものがあるかどうかはわからない」としながら「言葉や風土と結びついた、多くの人間が思い浮かべる風景やパターン化したイメージは確かにある」と書いている。
いずれにしても、言葉は生き物であり、時代とともに使われ方や意味合いが変わってくることもある。しかし、単なる「字ずらのよさ」だけで言葉を使うのではなく、その言葉に込められた思いや成り立ちについて考えてみることも必要なのではないだろうか。環境問題が騒がれ、仮想現実が当たり前になりつつある現在、これからの個人の、日本の原風景とはどのようなものになっていくのであろうか。
金子東日和の油絵です