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南京大虐殺:略奪と強かん

2009-05-08 11:29:22 | Weblog

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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為


  2、南京大虐殺

 南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。


     略奪と強かん

 南京に侵入した日本軍は、いたるところで略奪、放火をはたらきました。南京城内の南部は、南京で最もにぎやかな商業地区であり人口が密集する住宅地区でしたが、この一帯が最も深刻な被害を受けました。主な通りのいくつかが廃墟と化しました。
 日本軍は略奪や放火をはたらきながら、集団で、あるいは個別に、女性を暴行しました。難民区に避難していた女性でもまぬがれることはできず、侵入してきた日本軍に強かんされました。ドイツ人のジョン・ラーベは、1938年1月14日、ジーメンス中国本社(上海)のW.マイアー社長への書簡のなかで「約2万人の中国人女性が強かんされた」と記しています。
 日本政府と軍部は、日本国民には厳重な情報統制を行ないましたが、南京大虐殺は世界に報道され、国際世論から厳しい批判を受けたのです。

追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。

    
百人斬り裁判


 追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
   
 追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。

 
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止

 追記4:夏淑琴さん裁判

     史実を守る会


 追記5:「南京大紀念館写真撤去」報道の続報 

 

  追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!

     南京事件資料集

     南京事件小さな資料集





  「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  郝立明(男、71歳)の証言

 1937年の冬に、日本軍が南京を占領した時、私たち一家は漢口路の金陵大学難民区の収容所にいました。この難民収容所には難民が一千人余りいたのですが、何日もしない内に、日本兵が20人余り来て難民を全部外に追い立て並ばせました。並ばせてから、歩かせ、鼓楼(今の口腔医院の向かい)まで連行しました。顔いっぱいに髭を生やした日本兵が1人、難民1人1人の手にたこができてるかどうか、頭に帽子のあとがあるかどうかを検査し、あったらば、中央軍だったと疑われて残されるのです。私の兄の郝明友と弟の郝立康とが疑われて残されたので、私は兄と弟が一緒に帰るのを待とうと思って、一方に避けて待っていました。しばらくしたら、日本兵が1人私の方へやってきたので、恐くて大急ぎで家へ走って帰りました。年取った父の郝子傑は眼が悪く、私が1人で帰ってきたのを見て、すぐ私に「兄さんと弟はどうした。どうして帰ってこなんだ。」と聞くので、昼間の場景を父に話しましたが、晩になるとそこから機関銃の音が響いてきました。2日経って、父は子を思う切なる気持ちから、私をそこへ兄と弟とを探しにやりました。その付近の地面と沼とが死体でいっぱいでしたが、日本軍は自分たちの罪悪を覆い隠すため、石灰を死体の上にまいて、見ても分からないようにしていました。それで、兄と弟が見つけられず、それからも2人はもう帰って来ませんでした。こうして日本軍に追い立てられた難民一千人余りの内で、活きて戻ってきたのは2,30人でした。
 このほかにも、日本軍はいたるところで火を放って燃やしたので、私の家の近くにあった釣り堀の河に張り出した家が全部焼き尽くされましたし、市民の数多くが帰るに家無く、一家離散して、その惨状は見るにたえないものでした。父が私に家の様子を見に帰らせたのですが、その私が日本軍に見つかって、戸板をはずしてきてたき火に当たれるようにさせてやる羽目になり、日本語が分からなくて、日本兵に足で一蹴りされてしまい、彼らが革靴をはいていたため、蹴られた肋骨にひとしきり激痛が走ったもので、今でも曇天になるとしくしく痛むのです。それに、一度私は、10何歳かの男の子が、日本兵に縄でしばられ、甘露巷に連れて行かれて活きたまま撃ち殺されたのを、この眼で目撃しました。(李雲秀と趙玉珂と高方簡が記録)


     
 
 
 「Imagine9」【合同出版】より


武器をつくったり

 

売ったりしない世界


世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
 しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
 
 日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。
 しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。
ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。
 私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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