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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-05-26 08:23:01 | Weblog

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  中国東北に設立された秘密実験機構


 宮武 剛(編集)
『将軍の遺言ー遠藤三郎日記』より

昭和8年(1933年)の秋、遠藤は石井四郎軍医正の生体実験を視察する。場所はハルビンと吉林の中間、背蔭河という寒村であった。
 【11月16日(木) 快晴
「午前8時半、安達大佐、立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き試験の実状を視察す。
第2班、毒ガス、毒液の試験、第1班、電気の試験等にわかれ各○○匪賊2(人)につき実験す。ホスゲンによる5分間のガス室試験のものは肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり。青酸15ミリグラム注射のものは約20分間にて意識を失いたり。
 2万ボルト電流による電圧は数回実施せるも死に至らず、最後に注射により殺し第2人目は5000ボルト電流による試験を数回に及ぶも死に至らず。最後に連続数分文の電流通過により焼死せしむ。
 午後1時半の列車にて帰京す。
 夜、塚田大佐と午後11時半まで話し床につきしも安眠し得ず」】
 ホスゲンは塩化カルボニウムの別称、染料やポリ炭酸エステルの合成等に適するが毒ガスにも使われる。青酸カリ(シアン化カリウム)は15ミリグラムがちょうど致死量とされる。
 感情を押し殺すように事務的な表現ー。しかし明け方うなされて起き上がり書き加えたのだろうか、末尾の「安眠し得ず」に遠藤の衝撃がうかがえる。
 遠藤は自著や毎日新聞記者によるインタビュー(昭和56年)などで、この実験の概要は証言している。実験場は醤油工場を改造した木造平屋でハルビン監獄の死刑囚を送り込んでいた。「東郷部隊」と呼ばれ、隊員は日本名を禁止され内地の家族との文通も偽名で関東軍司令部経由。実験場の壁には高圧電線を張りめぐらし、遠藤も感電を避けるため軍刀のつかに外とうを巻き、それで門の扉を押した。
 この部隊こそ「関東軍第731部隊」の前身だった。
 遠藤の上司、岡村寧次参謀副長も「下働きの大部分は石井の郷村(千葉県山武郡)から選抜してきた青年」で「一切の外出禁止」「モルモットの代わりに、どうせ去りゆくものとはいえ本物の人命を使用するのであるから効果の挙るのは当然」(岡村大将資料)と書き残す。
 遠藤は、石井を「精力的によく仕事をする男だった。時には暴走するが」と評した。健康体に食べ物を与え水を与えなかったり、その逆を試しているのを聞き、興味本位の研究なら中止させる、と石井に言い渡したともいう。
 8年暮れには、空路、雪を突いてー。
【12月8日(金) 降雪
 「(略)拉林着、石井及び伊達氏に迎えられ背蔭河の細菌試験所を視察す。600メートル平方の大兵営にして一見、要塞を見るが如く一同の努力の跡、歴然たり。20数万円の経費またやむを得ざりしか(略)」】



   516部隊

   731部隊

   731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。  

   
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「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  劉鳳英(女、1986年に59歳)の証言

 私は幼い頃に両親が亡くなり、お婆さんが私と兄2人とを面倒見ながら暮らしを立てていて、家は南京市の柳葉街大膠巷でした。兄は2人ともわら麦を造ったりシャオピン(焼餅)を焼いたりする腕がありました。
 日本軍が南京に攻めてきたあの年には、私はもう10歳でした。私達一家4人で、上海路の難民区に引き移り避難しました。日本軍が入って来て何日かして、ある日の晩、日本兵が難民区に捜査にきて、もう眠っていた兄2人を捕まえて行きました。(上の兄は劉光栄で、21歳、下の兄は劉光華で、19歳でした)。2人の手にたこが出来ているから、兵隊だったというのです。一緒に住まっていた難民で9人が捕まって行きました。お婆さんがあきらめられずにぴったりと付いて行ったので、9人が大方巷の外に鉄柵のある家に閉じ込められたのを、見届けました。その日の夜、その辺りから機関銃の音が響いてきて、随分長い時間響いていました。明くる日お婆さんが捜しにその家に行ったら、中はもぬけの殻でした。3日目になって、閉じ込められた人がみんな近くの3つの大きな沼で殺されたとやっと分かりました。沼の辺に行ってみると、沼の中に死体がいっぱいうずたかくなっていて、沼の水が紅く染まっていました。春になる頃に、やっと慈善団体が屍を片付けに出ました。お婆さんは私を連れて見に行きましたが、もう兄2人の屍は見分けられませんでした。
 大虐殺の後、私とお婆さんとは家へ越して住まいました。ある日、柳葉街を歩いていると、真正面から酔っ払った日本軍が1人ゴム輪の人力車に乗っているのに出会いました。日本刀を抜いて斬りかかってきましたが、幸いに私がさっと身をかわしたので、難を逃れたのでした。兄が2人日本軍に殺されてからは、私とお婆さんの暮らしはとっても大変で、親戚の援助に頼ったり物乞いをしたりして過ごしました。16歳の時にお嫁に行ったのです。(許亜州が記録)
       

「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。


・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)

・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)

・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)

・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)

・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】


1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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