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遺棄化学兵器の危害

2009-05-15 06:23:23 | Weblog

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!それは大規模であり、あまりにも計画的で冷酷・残虐な施設・部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!


『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為


  4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 遺棄(いき)化学兵器の危害

 1925年に調印されたジュネーブ議定書は、化学兵器や生物兵器(細菌兵器)の使用を禁止していました。そのため、731部隊は、敗戦直前に撤退する時に、捕虜を殺害、建物を破壊して証拠の隠滅をはかり、重要な資料と物資は日本に持ち帰りました。その時、病原菌を植えつけられたネズミや家畜が周辺に逃げ出したため、ハルビン近郊ではペストが流行し、1950年代初めになってようやく終息(しゅうそく)しました。
 日本軍が大量の化学兵器(毒ガス弾・毒ガス筒)を中国に遺棄して撤退したため、戦後になって、遺棄毒ガスによる死傷事件、絶えることなく発生しています。最近の数年間においても、日本軍が秘密裏に埋めた毒ガスが発見され、死傷者が出ています。化学兵器禁止条約に基づいて、日本と中国は1999年、「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」を結び、日本政府の責任で、遺棄毒ガスの解体、処理の作業を始めました。

   
516部隊

   731部隊

   731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。 

   
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「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  劉世尭(男、82歳)の証言

 1937年の冬月6日は、中国侵略日本軍が間もなく南京を占領しようとしていて、城内の住民は雑然とあちこち駆け回って難を逃れようとしていました。五台山の難民区の収容所に区分されて、本部が五台山の永慶寺に置かれた、という話でした。わが家はこの時五台山に1軒借りて先に住み着いていました。「中央軍」は南京を死守し、南京城と存亡を共にする、と言われていたのに、11月9日(農暦)になって彼らは闘わずに逃げてしまい、南京城内を混乱に陥れました。私の両親と初めの妻と子どもとは冬月6日の午後、雲南路の金陵大学農業専修科の2階へ駆け込んで住まいました。私の初めの妻は日本軍の南京占領で驚き脅えたことで、病気になり2年足らずで亡くなりました。この事が私には終生忘れられません。
 冬月8日に、難民収容所の本部から人が来て、沈という人と連携し、国際救済委員会の第35難民収容所が出来ました。沈というのが私と太平路の「美最時」革靴店の責任者とに共同で班長をやらせ、2人に現状を維持するよう責任を負わせました。冬月9日には、難民区の中は難民がとても多く、子女を抱え年寄りを支え泣くに泣けない有り様でした。2日目の晩になって、「中央軍」の兵士は銃器や弾薬を投げ棄て思い思いに逃げ出しました。35難民収容所には2000人余り難民がいて、押し合いへし合い、身の置き所も無いようでした。冬月11日の朝、日本大使館に日本の国旗が揚がったのを見て、難民たちはいっそう恐れ不安がりました。私は2階に住まっていたので、ずっとはっきり見えたのです。午前9時頃かに、突然日本兵が数人来て、収容所に闖入してくるや、いきなり発砲して1人を傷つけ、たちまち数十人捕まえて行って、それっきり帰って来ませんでしたから、きっと殺害されたのです。しかも、日本軍は毎日夜になると婦女をひったくりに来て、引っ張って行き強姦したのです。太平路や中華路一帯が日本軍に放火されて燃え、夜間に赤々とした焔(ほのお)が天を焦がしました。
 日本軍は殺し焼き犯し掠め(かすめ)、悪事の限りを尽くしたのです。
 冬月14日に、私は2階で見たのですが、日本軍は雲南路の角で道を通る中国人を捜査して捕まえ、午前10時過ぎまでに、数千人連れて行きました。お昼時分に機関銃の音が絶えず聞こえただけでした。この難民収容所の後ろに、沼が1つあって、2階で見たのですが、日本軍は湖南路から中国人をたくさん捕まえてきて、沼に向かって5人1列でひざまずかせ、それに発砲する度に、1列ずつ中国人が倒れていき、水際に倒れる者もあれば、沼の中に倒れる者もあるのでした。何日か後に、沼をさらって発見された屍がみんなで83ありました。
 一番初めは、日本軍は中国の同胞を数百名清涼山へ追い立て、そこの大きな防空壕に押し入れ、燃焼弾と機関銃とでその人たちをみんな殺してしまうという、全く残忍なひどいものでした。
 凶悪な大虐殺の後しばらくして、日本軍は南京に住んでいる者に良民証を持たせようとし、それが無ければ命に保証はないことにしました。冬月の末に、父と寧海路に行きましたら、良民証をもらう人がたくさんいました。その時、人の群の中に売国奴がいました。張栄光といって、江西の人だと言われていましたが、それが自動車の上に立って言うには、およそ壮丁や人夫に徴発された者と中国兵になった者で、そうだったと言う者は、皇軍は殺さずに、食べる者を与え、旅費を支給して家に帰らせるが、およそそうだと言わずに、調べられて判明した者は1人残らず銃殺される。売国奴のこの話を聞いて本当と信じ、立って出てきたのが数千人といました。間もなく、日本軍が車でこの人たちを運んで行ってから、いくらもしない内に、機関銃の音が聞こえました。この人たちも日本軍に集団虐殺されたのです。(何月英が記録)

 

   「Imagine9」【合同出版】より


女性たちが


平和をつくる世界


戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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