不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

「慰安婦」制度

2009-05-17 06:29:10 | Weblog

クリックお願いします!!

ブログランキング 政治・社会問題 ブログランキング 近代・現代史(日本史) 地球環境・自然環境 - エコ・環境ブログ村

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為


  5、日本軍の性暴力

  日中戦争中、日本軍は中国の女性に対して、どのような性暴力を加えたのでしょうか。被害女性たちは、身体を傷つけられただでなく、精神をも深く傷つけられました。そのことを念頭に置いて、事実を見ていきましょう。



 日本軍「慰安婦」制度

 1931年末、日本海軍は、将兵(将校と兵士)の性の要求を解決するため、上海(しゃんはい)の日本風俗店を特別慰安所に指定しました。1932年3月、上海派遣軍副参謀長・岡村寧次(やすじ)らは、性病が将兵に広がることと、日本兵の強かん事件が多発し世論の非難を招くことを防ぐため、海軍のやり方をまねて慰安所の設置を決定しました。最初は日本国内から「慰安婦団」を招いて、将兵に性を提供するための場所を設置しました。これが日本軍「慰安婦」制度の始まりです。
 日本軍「慰安婦」制度は、「満州国」に広まり、日本の中国侵略戦争の拡大にともなって、中国各地に広げられていきました。1937年12月、南京で中国人女性に対する大規模な暴行事件が起こると、日本軍は華中(かちゅう)一帯に慰安所を設置するようになりました。
 「慰安婦」制度は、中国人女性への強かんや日本軍将兵が性病にかかるのを防ぐという名目で設置されましたが、実際には両方とも防ぐことはできませんでした。「慰安婦」にされたのは、主に朝鮮人女性や中国人女性でした。戦場とされた中国の場合は、女性が日本軍の作戦のなかで拉致されたり、仕事があるとだまされたり、抗戦中に捕虜となった女性が強制されたりして「慰安婦」にさせられました。日本の植民地だった朝鮮の女性の場合は、朝鮮国内で仕事があるとだまされて、遠い戦場へ連れて行かれた場合が多かったといいます。
 アジア太平洋戦争がはじまると、陸軍中央が慰安所の設置に乗り出し、フィリピン、インドネシアなどの東南アジア・太平洋地域で現地の女性を「慰安婦」にするなどして、慰安所を広げていきました。
 日本軍は慰安所の設置、管理、統制、「慰安婦」の募集、輸送に関与し、日本の外務省、内務省、朝鮮総督府、台湾総督府など日本の国家機関も「慰安婦」募集や移送に関りました。その意味で、「慰安婦」制度は、日本の軍・国家ぐるみの「女性に対する戦争犯罪」ということができます。
 慰安所の女性たちは外出の自由、身体の自由がなく、「慰安」をことわれば、殺されるかもしれない状況におかれました。人格をもった女性の性を戦争をつづけるための道具にしたのです。英語では「慰安婦」のことを「sexual slave」(性奴隷)という表現をします。「慰安婦」にされた女性たちは心身に深い傷を負(お)い、生涯にわたりトラウマに苦しんだのです。
 
 ■上海崇明島で生活していた朱巧妹は、戦争中に日本軍によって「慰安婦」にされ、耐え難い苦難を受けた。日本軍の暴行に憤慨した彼女の夫は、抗日ゲリラ隊に参加して、犠牲になった。彼女は、2005年2月、95歳で亡くなった。



   女たちの戦争と平和資料館

   ガイサンシーとその姉妹たち

    
   
516部隊

   731部隊

   731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。 

   
化学兵器CAREみらい基金ブログ

   大久野島(毒ガス島)

   中国人戦争被害者の要求を支える会

   中帰連

   ハイナンネット

   南京への道:史実を守る会

   根津公子さんのページ



 

       
   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  余揚金華(女、67歳)の証言

 1937年に日本軍が南京を占領した後、冬月25日に、金陵女子大学で日本軍が身分証を発行した時、青壮年を一方に追い立て、間もなくトラックが3台来たのに一緒に乗っけて100人余りを、陰陽営まで連れて行きました。この人たちが引っ張られて少ししたら、機関銃の音がひとしきり聞こえましたから、全部銃殺されたのです。
 日本軍が入って来て4週間くらいしてからでしたか、一度、鼓楼医院の両側の横丁で、アメリカ人が中国人で動員された人たちを指図して、日本軍に殺害された中国人の屍を100余り防空壕まで引きずって埋めさせているのを、この眼で見ました。(秦景沢と陳玉蓮が記録)

 
    「Imagine9」【合同出版】より


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界


「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

クリックお願いします!!

ブログランキング 政治・社会問題 ブログランキング 近代・現代史(日本史) 地球環境・自然環境 - エコ・環境ブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする