●731部隊関連年表
●人体実験疑い 京大調査継続せず(731部隊)
●日本の核開発(加藤哲郎さん)
●第4回 「戦争の加害」パネル展 2019 in 横浜
●第20回『衛生学校記事』情報公開裁判
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
●石垣島の自衛隊!!
●元731部隊軍医と強制不妊手術
●731部隊・100部隊と戦後の流れ
●細菌戦部隊員の戦後
●水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、1000隻近くの漁船が被爆した!!
ビキニ「死の灰」世界各地へ
●日本の核開発
「徴用工問題」とは何か
日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】
・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前)
・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない)
統計不正聴取に厚労省官房長同席 中立性への疑念、更に
水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない!!延べ992隻が被爆!!
2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影
●ニュース
人体実験疑い 京大調査継続せず
記者会見を兼ねた報告会「 京都大学の『学位論文における研究活動上の不正行為に関する調査結果について(通知)』に対する異議申し立て 」
日産、ゴーン被告と全面対決=取締役解任、影響力を一掃へ
二階氏「独断」、反発招く=力添え、細野氏に続き小池氏も-自民
森友学園の籠池泰典・前理事長「安倍首相はエセ保守」元NHK記者のインタビューに断言。3月6日に初公判
【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 濃くなった景気後退の兆し! アメリカの予兆と日本の来年度予算&日銀政策
自衛隊の名、実態と合ってない? 無線では「日本海軍」
「南スーダンPKO動画」開示 防衛省
根元から腐り始めた国の機構/防衛省PKO動画公開
核兵器廃絶!!
復活する米露の中距離核戦力とは
3 11人工地震の証明~日本人が知らねばならない真実~
「歴史の真相」内海聡の内海塾
【大竹まこと×森永卓郎×倉田真由美】 やばい日本の製造業! 家電&国産スマホの財政危機
【大竹まこと×近藤誠×倉田真由美】 〈目から鱗の医療〉 がん手術・抗がん剤治療・早期発見は効果がない!
竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか
海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見
【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 日立がイギリス原発輸出を断念! 世界に逆行する日本と経団連の責任
森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」
「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ
松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示
“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)
真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活
731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他
国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題
中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30
京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)
731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に
●横浜「戦争の加害展」感想
2月10日
・東京の3月10日をいうが、日本軍のやってきた事を知らない人多い。マスコミが報道しない。教科書から、それらの事を抹殺してしまっている。若い人はなおさら知らない。恐ろしい事である。戦後処理がまったくなされてない日本である。日本は豊かで民主的だと思わされているが、貧しいのである。夕食を一家団欒で食べてる家はどの位あるのだろうか。夫は残業で、子供はじゅくで、、、。みんなで声をあげないと。
最近の韓国への報道はとてもひどい。音楽番組のDGまでかん国はひどい、ずるい、なんて言ってます。困ったものです。(女性80以上藤沢市)
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
惨!人間モルモット
この日も、いつもと同じくペスト菌の培養作業であったが、いつもより割当量が少なかったので、2時頃には終り、実験台やガラス器具などの消毒をしていた。
「まさか、今日だけ早じまいということはないだろうな」
「どっかの使役にまわされるんじゃないか、また」
私達3人は上官の耳をはばかりながら、こんなささやきを交わした。少しでも休養の時間がほしいというのが、一同の変わらぬ心底であった。ひまさえあれば、居眠りすることばかり考えているのである。
そこへ、連絡係の傭員が入ってきて、
「運搬使役1名、至急、本館の地下へ行ってくれ」
という。3人とも一斉に消毒の手を止めて、進んで志願する気配を示した。私達は、反射的にそうした態度になるよう習慣付けられていた。
「そうだな、今日は、秋山、君、行ってくれ。そのままでいい。26号室だ」
私は急いで手を洗い、地下室の方へ下りて行った。
不気味な廊下である。蠅、蚊など昆虫の入り込むのを防ぐために、虫どもの嫌いな赤い色を、天井にも羽目板にも窓にも塗ってあるのだ。外から光が届かず、夜と昼の区別がつかない所である。まるで赤黒い血を塗りたくったトンネルのようだ。細長い天井の所々に裸電球が吊るされてあるだけなので、周囲は薄暗く、ここに入ると何か冒険でもしているような気分になってくる。
・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り
京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・
人体実験疑い 京大調査継続せず
記者会見を兼ねた報告会「 京都大学の『学位論文における研究活動上の不正行為に関する調査結果について(通知)』に対する異議申し立て 」
日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第5章 陸軍習志野学校
秘密の軍事学校
当時の日本陸軍参謀総長と教育総監との間の覚書文書によると、この学校の任務は「化学部隊の中核能力と各部隊の化学戦将校を養成する」ことと規定している。これは日本軍隊の中で化学戦の中核人員と各野戦部隊に送る化学戦を担う士官を専門的に養成することだが、これは国際法の禁止する所なので、この学校の機密を厳格に保持せねばならなかった。
●登戸研究所資料館
第1展示室
第1展示室では、登戸研究所が設置された歴史的な背景と目的、立地条件、組織の概要、運営体制、他機関との関係、そして戦争の進展とともに研究所の規模と役割が次第に変化していく過程を中心に研究所の全体像(全容)を紹介しています。
登戸研究所の誕生
「統帥権の独立」が謳われていた当時にあっては、参謀本部は政府から独立した組織でした。そのため、参謀本部の指導下にあった登戸研究所は、政府の方針に縛られることなく、自由に(秘密線)のための研究・開発活動を行うことができました。
陸軍のなかの登戸研究所組織図
●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
■731部隊による人体実験・細菌兵器使用
―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。
731部隊は、現中国黒竜江省の省都・哈爾浜市近郊の平房に、 1939年頃までに完成した細菌兵器開発の一大軍事基地にありました。731部隊では、実験材料にされる人々は、特別に定められた「特移扱」と呼ばれる手続きで憲兵隊により供給されて、「マル夕」と称されていました。敗戦までの5年間に少なくとも3000名が送り込まれ、生存者はいませんでした。21世紀になって、中国では、証拠隠減の焼却跡から発掘された憲兵隊の「特移扱」資料の調査が進み、300名以上の氏名が判明しつつあり、被害遺族からの訴えも出始めました。
2011年には、細菌兵器による攻撃についての新資料「陸軍軍医学校防疲研究報告」の第一部60号が見つけられました。同報告では、1940~42年に中国で、731部隊が行った6つの作戦をとりあげ、使用したぺスト・ノミの量と感染者数や結果に基づいて計算した作戦効果(ぺスト・ノミ使用量別の致死数)をまとめた表が示されています。同表の結果は、裁判で認定された、損害の発生した日や場所と辻褄が合うものした。新資料は、これまで「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府に根拠がないことを暴露するものであったのです。
昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
復刊衛生学校記事1(2)(井上義弘)
1961年7月
昭和20年の頃
3、特殊爆弾から原子爆弾へ
8月11日24時、広島の調査委員は次の要旨の緊急電報を発信した。
「原子爆弾の爆発中心付近は放射能が強い徴があるから、中心から2キロ以内の地区に常駐している者の白血球を調査し、その数4000以下の者は中心から少なくも5キロ以外の場所に移動させられたい。」
当時福岡の集合教育に出席していた陸軍軍医学校の戸田(耳鼻科)、出県(眼科)、松木(口腔外科)、滝川(整形外科)、弓野(皮膚科)の諸教官も被教育者の軍医達と共に11日広島に到着して、小倉及び臨時福岡第2陸軍病院から派遣された救護班の業務を指導すると共に調査の援助を行なった。
広島から次々に送られてくる報告に基づいて、陸軍では火傷に対しては嘱託の東大福田保助教授及び教室員を、放射能関係に対しては軍医学校の御園少佐及び理研仁科研究室の村地孝一氏他2名派遣した。
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
●水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
第8章 昭和維新と統制
しかし、1930年代、陸軍が兵士をもっとも多く徴集していた農村についての民族学的研究は、文部省の最善の努力にもかかわらず、地方住民は相対的に政府の宣伝に影響されていなかったことを示している。彼らにとって天皇制イデオロギーは、独自の地域文化ほどの意義や価値をもたなかったからである。イエやムラの意識がまだ、国家意識より大きかったのである。事実、1937年半ばに日中戦争を開始する段になっても、多くの地方住民は天皇の権威をきわめて表面的に受け入れているにすぎないことがわかった。これを知って、陸軍は兵士が根ざしている基盤、わけてもイエやムラに対して働きかけを行った。1941年1月8日、陸軍大臣が布達した「戦陣訓」は、「恥を知るものは強し、常に郷党家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励してその期待に答ふべし」「生きて虜囚の辱を受けず。死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」と命じた。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
憲法9条を生かそう!!