●第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
●長崎 731部隊・100部隊パネル展 ●日本反戦平和記憶国際シンポジウム ●4月18日(木)ビザ発給拒否国賠裁判(最大の山場) ●ABC企画総会・講演、「講演と合唱の夕べ」 ●ソビエト連邦、中華人民共和国とハバロフスク裁判の忘却1949-1956 ●情報公開裁判、意見交換会、細菌戦センター総会・講演 ●731部隊関連年表 ●人体実験疑い 京大調査継続せず(731部隊) ●日本の核開発(加藤哲郎さん) 明仁・日本政府・日本医学会は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ! 又、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマと4度被曝した日本は、世界に先駆けて核兵器廃絶・脱原発と叫ぶべきではないか!! ●水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、1000隻近くの漁船が被爆した!! ビキニ「死の灰」世界各地へ ●日本の核開発 「徴用工問題」とは何か 日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!! 平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相 ●憲法第9条 1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】 ・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前) ・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない) 統計不正聴取に厚労省官房長同席 中立性への疑念、更に 水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない!!延べ992隻が被爆!! 2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影 オリンピックにお金をかけるのではなく、いじめ対策・貧困対策・戦争被害者対策にお金をかけるべきだ!! ●ニュース 人体実験疑い 京大調査継続せず NZ乱射、死者50人に=豪州男、単独犯か-首相に犯行声明 自存・自衛と言って戦争は始まる!! 防衛省が長距離巡航ミサイルを初開発へ “天文学は軍事利用せず” 学会が声明も世代間で意見の違い ゼネコン4社が泥仕合、リニア談合裁判「修羅場の構図」 透析治療 学会ガイドラインの手続き軽視浮き彫りに 公立福生病院 天皇神話はいらないのでは? 天皇皇后両陛下 来月伊勢神宮へ 最後の地方訪問 JOC竹田会長が辞意、続投一転19日にも意向表明 竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか 海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見 【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 日立がイギリス原発輸出を断念! 世界に逆行する日本と経団連の責任 森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」 「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ 松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示 “旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27) 真相を解明していないからこうなるのだろう!! オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活 731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他 国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題 中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30 京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局) 731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に ●横浜「戦争の加害展」感想 2月10日 ・非常に怖い(男性30代市内) 「特殊部隊731」 秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行) 第2部 氷の部屋 「うん、痛みはないんだけど、まだかゆいんだ、丁度、霜焼けになったみたいだよ」 そう答えながら佐々は、シャツを脱いだ。傷跡は、親指と人差し指で輪を作ったぐらいの大きさである。えぐりとったあとを肉を埋めずに縫い合わせたので、巾着袋の口のようにしわになってしぼんでいた。 「馬の肛門みたいじゃないか」 と、保坂が冷やかしながら笑った。 「何でもいいよ、どうせみえぁしないところだから。不幸中の幸いだったんだね。・・・しかし、可愛そうなのは、阿部だ。今度からお互い気をつけようよ、な」 実際、私達はどこから災難が降ってくるかわからないのである。 ペスト菌は、新しい培地に菌を移植してから大体1日半か2日ぐらいで、はっきりした集落を作るが、培地の成功した試験管は1本ずつ固定するように作られた箱に詰めて保存室に運ばれる。その箱を手押し車で運搬するのが私のその日の仕事だった。が、この何でもない仕事でさえ、もしつまずいて手押し車をひっくり返しでもしたら、それこそ阿部の二の舞なのである。病気の恐ろしさを体験して、初めてその病に対する警戒心が生れるように、私は一層臆病になっていた。 保存室の係りの人に箱を渡して一瞬ほっとした私は、なるべく暇を食って帰ろうという不貞な気持ちから、遠回りするつもりで、からの手押し車を押しながら通ったことのない長い廊下を歩いていた。 ・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容 (731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より) 1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り 京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。 審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。 これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。 ・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った ・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった ・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した ・死亡後の学位授与認可 ・・・・・ 人体実験疑い 京大調査継続せず 第45回定例研究会(公開)のご案内 日時 2019年3月24日(日)11:00~17:30 会場 京都大学医学部構内 医学部先端科学研究棟1階セミナー室(大) http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/yoshida/map6r_i.html (地図上の16番の建物) ホームページ https://japan-war-medicine.jimdofree.com/ 資料代 1000円 14:00~15:00 第19回会務総会 15:10~17:30 一般演題 1. 優生保護法強制手術に見る宮城県の状況と背景―検証する視点の模索 村口 至(坂総合病院) 2. 日中、太平洋戦争ー軍部衛生部に組み込まれていった医学生、医師たち 莇昭三(城北病院) 3. 「留守名簿」石川県内48件の訪問調査の報告 池田治夫(戦医研北陸支部) 4. 京都大学による旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証 西山勝夫(滋賀医科大学) 日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!! ●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より 第5章 陸軍習志野学校 残酷な軍事演習 案内役の兵士の村田栄吉も道路がはっきり見えないので、同じようにマスクを外して直接車両を案内した。前に出て来た和田盛哉はこのとき軽装甲車を操縦していたが暑いのでマスクを外した。当時、規則の上ではマスタードなど毒剤の液体だけが人体に障害を起こすと記載されていたので、兵士たちは液体の毒剤に接触さえしなければ危険はないと思い込み、あえて大胆にもマスクを外したのだ。しかし、毒剤が撒かれていた地帯は、マスタード毒剤が陽光にあたって蒸発し、空気中いたるところ毒剤が充満していた。そして散毒車が撒いていたときにできた噴霧状の気体も風に吹き散らされて、空気中に散布された。兵士たちはこの空気を吸い込んで障害を起こしたが、ただその時は気が付かなかったのである。第1段階の演習はこのようにして終わった。 (広島県大久野島毒ガス工場) ●登戸研究所資料館(明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブックより) 第二展示室 風船爆弾の放球まで 放球のための実験は、1943年千葉県一宮において行われ、風船爆弾によって実際にアメリカを攻撃するめどが付けられました。 放球基地は、千葉県一宮・茨城県大津・福島県勿来の3か所に設置され、放球部隊(気球連隊)が配置されました。放球は1944年11月3日の明治節を期して開始される予定でしたが、爆弾の落下事故のため、実際には7日から実施されました。 飛行実験地と放球地図 ●特集 軍拡に走る安倍政権と学術① 15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために 1、戦争における医学者・医師たちの犯罪 西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表 2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか ■医学界全体が戦争に加担した ―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか 医学教育の軍事化・医学生の戦時動員もあげられます。1939年から、軍事教練が全大学の学部学生の必修科目となり、医学部でも、現役の配属将校による軍事教練が課され、軍事講習の授業も実施され、軍隊内の衛生・防疫および戦傷について学ぶ軍陣医学(現在の軍事医学にあたる)の講義も行われました。同年より、「学生衛生部隊」が全国の大学医学部の学生により組織され、夏季休暇時等に各地に「衛生調査」等の名目で派遺されました。 昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版) ●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか? なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか? ・第21回『衛生学校記事』情報公開裁判 1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊 武見太郎の金原の関係 武見太郎が1931(昭和6)年に近衛第3連隊に配属された。その時の上官が金原節三(当時軍医大尉)だった。武見は、幹部候補生で、約10か月過ごしたようだ。その時金原言われた言葉は、「お前たちは、将来軍医になるのではないから、軍医の規則ばかり勉強する必要はない。自分の専門とする勉強をどんどんやって、その余暇に軍医の関係の本を読めばよい。そういうことは、各中隊でやっているとうるさいから、他の部屋に来て勉強しろ」というものだった。 金原は、その後陸軍省に行ったが、武見も、軍の戦時研究に携わっていたので、陸軍省で二人は何回もあっている。 武見は、1938年(昭和13年)理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究した。武見の恩師、仁科芳雄とも金原は会っている。 敗戦後、金原が防衛庁(自衛隊)にいたとき、日本医師会の武見を訪ねて、防衛衛生学会を開くので、挨拶をしてくれと、武見に頼み、武見も喜んで引き受けている。 金原との人間的な関係から、当時世論の強い反発もあったが、武見が防衛医科大学校の、設立委員長になった。 その中で、武見は「金原先生が戦前に考えておられた防衛衛生に関することは、防衛大学校で受け継がれて大きく発展するであろうと願っている」と言っている。 金原は、戦前、細菌戦に携わっていたのだから、そのことが防衛医大に受け継がれていくということであろうか??意味深な発言である。 仁科芳雄 第5代衛生学校長 井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身 1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。 井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。 東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。 ※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。 1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。 南方軍防疫給水部(岡9420部隊) ●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 ●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く ●水俣病問題 ●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去 ●小泉親彦と宮川米次の絆 ●ヒロシマからフクシマへ ●宮川正 ●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ— ●ビキニ「死の灰」世界各地へ ●自衛隊とサリン ●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場 ●日本の国家機密 ●兒嶋俊郎さんを偲ぶ ●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!! ●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 第3部 陛下の戦争 1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年 第8章 昭和維新と統制 Ⅱ 関東軍と支那駐屯軍による華北分離工作の諜略は、中国側の抵抗姿勢をさらに強固にした。日本の「アジア・モンロー主義」はたちまち英米と対立する原因となった。こうしたなかで、国内では国体をめぐる議論が再燃し、それは徐々に統治エリートヘの民衆の不信を高める結果となった。10年近くの間、宮中グループは「国体明徴」の試みに着手していた。それは天皇制を否定する思想に対抗し、国家の本質に関する諸説や知識人の議論の混乱に合理的見解を与えようとするものだった。遅々として進まない政治改革に苛立つ陸軍指導層は、いまや、国体観念と天皇が神の子であるという神話により民族意識を高揚させる運動を始めた。 この運動は1935年2月18日、貴族院で始まり、美濃部達吉の天皇機関説が「学匪の反逆思想」であると非難された。演説したのは菊池武夫男爵で、彼は退役した将軍であり、在郷軍人会とともに日本政治の主流のひとつとなった急進的な右翼結社、国本社の会員だった。菊池は岡田内閣に美濃部教授の著作の発禁処分を要求した。1週間後、美濃部は弁明のために登壇したが、院外では皇道派の将校と結託した右翼団体が、美濃部を攻撃するデモを行っていた。 ●小泉親彦と昭和天皇 ●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~ ●近代天皇制の真髄は ●福沢諭吉 ●神武と戦争 憲法9条を生かそう!! |