日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??
戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
*7月18日(月)の加藤哲郎講演は、事情により小河孝講演に変更になりました。
「核兵器禁止条約」発効の意義と課題―今こそ、東北アジア非核兵器地帯を
11月15日(月)
・現在の日本の医療・科学の基盤に戦前、戦中からの植民地主義が何の反省もなく続く姿勢があるのだと改めて確認できました。医療、科学の情報が、権威に独占されることなく、公平に開かれることを望みます。
(30代、市内)
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第8回
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
帝銀事件捜査が行われていた1948年1月から9月当時、まだ東京裁判やBC級戦犯裁判が行われている最中であり、一方で残虐行為のために死刑判決を受ける人がいた反面、他方では極めて組織的な残虐行為を行なったにもかかわらず、米軍に保護され、完全に免責されるという人(のちに米軍に雇われる人もいた)が存在したのである。
つまり、帝銀事件の捜査の段階で、日本の民主化・非軍事化政策の一環として行われた戦犯追及は、大きくねじ曲げられ、戦争犯罪・戦争責任が隠蔽されたということである。その意味で、帝銀事件の捜査は、占領政策の大きな転換をもたらす分岐点なったと言えるのである。(明治大学平和教育登戸研究所資料館長)
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
実験医学雑報19巻 第8号(1935年)
(次の一文は、総ての刊行物を利用して国民一般に選挙の粛清の趣意を徹底せしたいとの内務省の依頼により特に掲載したものである)
選挙の粛清に就いて
惟うに選挙粛清の事たるや固より一朝一夕の努力に依って克くその目的を達成し得るものに非ず又国民の普く之が必要を自覚して奮起協力するに非ずんばその効果を挙ぐること能わざる所であって、粛清の実を挙げ得たると否とは1に国民が憲政自治の本義に醒め、威武に屈せず誘惑に陥らず、克く法令の遵守して公明純正に参政報国の誠を献くると否とにかかっているものと謂われなければならない。
今や全国に於ける選挙粛清運動は日と共に次第にその熱を加え来たり国民の意気愈々旺ならんとしている。翼くはこの熱意を続けて選挙界の空気を一新し、自由公正なる選挙の実現を図りたいものである。
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
浜松一中の慰霊碑
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
大牟田「爆発赤痢」事件
北宏一郎
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
3 ヘーグ陸戦条約3条が認める賠償請求権の帰属主体
(3)被告の主張に対する反論
ウ 以上の条約解釈上の諸原則を踏まえると、ヘーグ陸戦条約3条の解釈上重要な点は次の通りである。
(ウ)ヘーグ陸戦条約第3条の実質は、慣習法である陸戦規則の改正であるから、同条が規定されることによって従来から国際法上の主体であった被害者個人が法主体性を喪失することはない。
(エ)ヘーグ陸戦条約第3条第1文と第2文とを総合的に解釈すれば、同条は一体として被害者個人に対し交戦国に対する直接的な損害賠償請求権を付与している。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
二月十三日
想い出の話
僕は軍隊生活は決して嫌ではなかった。男であるが故に行ける所と思う時は、本当に嫌と言う心持よりもむしろ好奇心が多分に取持った。
軍隊生活のあこがれを胸に画いた事さえあった。しかし私は不幸であった。この晴れの満州入を控えて主家の変動にあった。本当に涙で入営前二三週間を暮らしたのを覚えている。死に直面しながら平然と私に心配かけまいとする主人の尊い心持を知った時、私は初めて人の情によって泣いた。
私が入営の祝いに作って頂いた紋付羽織が涙を誘う形見になろうとは 神ならねば知る由もなかった。
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅲ 細菌戦部隊の周辺
戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
解説
証言「供述者」の背景ーある日本人戦犯を中心に
日中友好運動へ
折も折、日中間で重大な事件が起きていた。長崎国旗事件である。中国は、岸内閣のたび重なる反中国言動に強く抗議し、この事件をきっかけに、全ての交流を中断する措置をとった。この状況に危機感を深めた藤田ら「中帰連」の代表5人が、首相・岸信介を厳しく詰問する抗議声明を発表した。その声明は、彼らの戦争体験を踏まえ、侵略戦争への反省を求め、日中友好と平和の確立を主張する次のようなものであった。
岸首相は、かつて私たちを侵略の戦場へ送り出した立場にありながら、今なおその戦犯としての罪を反省せず、中国を敵とみなして承認を拒み、過去の罪の上にさらに罪を重ねている。私たちは、今こそ過去の侵略戦争の反省の上に立って、政府の中国を敵とする戦争と人間不信の政策を、友好と国交回復による信頼の政策にかえ、アジアに新しい集団安全保障の平和を作り上げる為力を合わせましょう。
(以上)
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
はじめに
しかし、毒ガス戦の「遺産」は今も日本から消え去ってはいない。日本政府は、中国に遺棄した毒ガスを廃棄するための調査を1991年から実施しているが、廃棄作業の実行はこれからである。日本国内では2000年と2003年に福岡県苅田港で毒ガス弾が発見され、大型船接岸の為の浚渫工事が中断された。2002年から2003年にかけては、茨城県神栖町や神奈川県平塚市・寒川町で、毒ガスやそれに基因するとみられる有毒物による被害者(「被毒者」ともいう)が出ており、日本政府は1973年に行なった廃棄・投棄毒ガスの全国調査を再点検しなければならなくなった。中国では、2003年8月、日本軍が遺棄した毒ガス缶が黒龍江省チチハル市で掘り出され、44名が被毒し、1名が死亡するという痛ましい事故が起こった。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
第10章 残酷な人体実験毒ガス実験
核時代39年(1984年)5月初版発行
焼け火箸ー拷問の挙句に斬首
佐藤五郎
分隊員 上等兵
(旧部隊名)第59師団第109大隊
「なに」佐藤の顔を見ると、「お前にできるか」「班長殿、自分が言わせてみせます」必死になって火箸を取ろうとする佐藤の顔を見るとニタリと笑い、「よし、やれるだけやってみろ」佐藤は火箸をひったくるように奪うと、近寄って行った。
拷問は20分、25分とたっている。中年の男は体をまっすぐ伸ばし、呼吸するたびに焼けただれた皮膚を破るように骨が浮き出して見える。「貴様、言わねえか」目を吊り上げた佐藤1等兵は吊るした農民風の男を見上げると、大腿部と下腹部を所嫌わず殴り続けた。