●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
731部隊被害者遺族の訴え!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
実験医学雑報19巻 第7号(1935年)
宮川米次
日本人独創の芸術
浮世絵の開拓者であり始祖ともいうべき人は岩佐又兵衛勝以(いわさまたべいかつもち)であるということには殆ど異論はありますまい。
同人の系図は久しく不明であったが、神戸市武岡豊太氏所蔵のの岩佐家系図によって初めて解った。それによると摂津伊丹の城主荒木摂津守村重の末子である。父村重は信長に仕え功を樹てために伊丹の城主となったが、後その命に背いたために信長に亡ばされ、落城自殺した。その時又兵衛は僅かに2歳、母に伴われて京都の寺に身を潜め、後父の故郷たる越前福井に逃れ継母ぶ養われて人となり、世を憚って継母の姓、岩佐を名乗ったということである。
長ずるに及んで一時織田信雄に仕えたが元来丹青の道を嗜み、深く大和絵の画格を備えた。
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
浜一中大福餅事件
浜松一中の慰霊碑
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
<三池の冬1997 その2>より
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
戦時下 大牟田「爆発赤痢」事件、隠された企業犯罪・国家犯罪
北宏一郎
いわゆる「大牟田爆発赤痢事件」の真相
小島三郎
内務省防疫官の肩書で三井を免罪し、水道水による赤痢事件として幕引きを図った小島三郎東大教授は、別の顔を持っている。
東大伝染病研究所教授であり、陸軍軍医学校防疫研究室の嘱託である。
この事件の前年、1936年5月15日に浜松で死者46人、患者2250人をみた浜松ゲルトネル菌事件(サルモネラ菌の一種)の際、いち早く石井四郎と共に伝研の教授として浜松に入っている。この時、浜松入りしたのは北野政次、西俊英。731部隊の要職を占めたメンバーがここにいる。
小島三郎も1941年と1944年に南京の多摩部隊に2週間出張している。
戦後、1947年伝研が厚生省予防衛生研究所(予研)になるや、副所長となり、更に1954年には所長となっている。
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第7 原告らの損害
2、義烏の原告らの被害
浙江省義烏市市街地の原告らは、別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号15から58迄の44名である。
原告らは、その家族らが日本軍の細菌戦によって義烏で発生したペスト流行によりペストに罹患し、高熱、頭痛、鼠蹊腺腫、嘔吐などの症状を呈して死亡したことにより、耐え難い精神的苦痛を被った。さらに、敗戦直前から戦後現在に至るまでの被告の徹底した隠蔽行為及び立法不作為によって、原告らは新たな耐え難い精神的苦痛を被った。
上記44名の被告らが戦時中の被告の細菌戦によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各1000万円を下らない。また、上記原告らが被告の細菌戦隠蔽行為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各500万円を下らない。さらに、上記原告らが被告の立法不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各500万円を下らない。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?