●日米安保条約・自衛隊を問う!!
厚木基地の騒音被害、米機移駐の今も 住民訴訟、続く「違法」判断
米海軍と海上自衛隊が共同使用する厚木基地(神奈川県綾瀬市、大和市)から北に約1・5キロの大和市の住宅密集地。真上を飛行機やヘリコプターが飛び交い、騒音をまきちらしていく。
「何もなくても自然と上を見上げてしまう」「飛行機に手が届きそうで」。2人の女性はそう言った。
熊倉シヅエさん(75)と渋川ミサ子さん(76)。家が隣同士で長年、米軍機と自衛隊機の騒音被害に悩まされてきた。2人とも厚木基地の騒音被害をめぐる裁判の原告でもある。
熊倉さんは現在の場所に住んで約45年。引っ越したころは一人息子の子育ての真っ最中だった。「うるさいし、落ちないかといつも心配だった。子どもは耳を塞いで怖がっていた」。住んで約40年の渋川さんも2人の子どもを育てながら同じ思いをしてきた。「空気を入れ替えたくても窓を開けられない。子どもは怖がって我慢していた」
住民たちが騒音訴訟に踏み切ったのが1976年。静かな空を求めた長い闘いは現在、5次訴訟になる。「参加することが少しでも解決につながるなら」。熊倉さんは2次、渋川さんは3次訴訟からの原告だ。
2018年に米空母艦載機の岩国基地(山口県)への移駐が完了。FA18戦闘攻撃機を含む約60機が厚木基地から去った。
2人とも最初は静かになったと思った。だが、そんな安心も長くは続かなかった。相変わらず米軍の戦闘機がやってくる。自衛隊機は頻繁に飛び、米軍輸送機オスプレイの飛来も目立つようになった。移駐しても「うるさいのは変わらない」というのが実感だ。
会話中、騒音で妨害されて腹がたつ。テレビを見ていれば、クライマックスのときに聞き取れない。自動車の音がかき消されて交通事故にもつながりかねない。子育て中は肉体的、精神的に子どもに影響しないかと考え、今は一緒に暮らす孫たちのことが心配だ。
「国はアメリカに弱いから」と熊倉さん。「国を動かすのは議員」と渋川さん。変わらない現状に「子どもたちの将来のためにも静かになってほしい」。2人は強くそう願っている。(上嶋紀雄)
厚木基地を巡る騒音被害は、法廷の場で国と住民が争っているが、互いの主張は平行線をたどり、抜本的な解決は見えていない。
1次訴訟は1976年に始まり、4次訴訟まで判決が確定している。いずれも「騒音は違法状態」との判断が示されたが、4次の一、二審が認めた自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めは最高裁で棄却された。
5次訴訟は2017年8月、周辺8市の住民が米軍機と自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めと損害賠償を国に求めて横浜地裁に提訴。原告は9千人近くに上る。
国側は、住宅防音工事などの対策に巨額の費用を投じてきたほか、激しい騒音を伴う空母艦載機の模擬着艦訓練(FCLP)の硫黄島での実施や、空母艦載機の岩国基地への移駐などを実現したとして騒音低減の効果などを主張。特に訴訟のポイントとなる岩国移駐については「効果が著しい」とし、基地の「公共性」の高さをあげている。
原告側は同じ騒音レベルでも民航機に比べて軍用機の方がうるさいと感じる度合いが高いなど生活への影響が大きいと指摘。軍用機の騒音の評価を見直すべ
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
藤井治夫著
第2篇 自衛隊の機密
第3章 防衛力整備
2、年度業務計画と予算
業務計画の構成
防衛力整備5ヵ年計画を年度ごとに具体化したものが業務計画である。したがって業務計画には、作戦用兵に関するものは含まれない。業務計画を毎年、作成しているのは、陸海空各自衛隊と統幕会議技、技術研究本部、調達実施本部および防衛施設庁である。
業務計画制度は米軍から導入されたもので、1951年12月、「警察予備隊の綜合業務計画に関する訓令」が定められ、これにもとづき翌52年2月「警察予備隊の業務計画に関する隊則」が制定された。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
1、 生物・化学兵器の開発の歩み
陸軍の化学戦関係の技術研究は他の研究機関においても実施され、その主なものは次の通りである。
第3陸軍航空技術研究所
航空化学兵器に関する研究
第8陸軍技術研究所
航空衛生、航空心理の研究
第1陸軍造兵廠研究所
第2分科 化学に関する研究
第2陸軍造兵廠研究所
第4分科 材料に関する研究
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第2章 天皇に育てる
Ⅱ
戦後早い時期に天皇の伝記を著したねずまさしは、彼と学友が第1学年に受けた12の序説と第2学年以後の授業の内容を要約してつぎのように述べている。
第1学年の序説12編は神器、日章旗、国、兵、神社、米、刀、時計、水、富士山、相撲、鏡など、第2学年以後は仁愛、公平、改過、操守、正義、清廉などの抽象的題日とともに、御即位、上杉謙信、赤穂義士、徳川光圏という具体的題目を加え、第3学年以後に外国の事例としてワシントン、コロンブス、マルサス人口論、ペートル大帝、ルーソー、第4学年ではウィルヘルム2世 マホメットがえらばれる。外国の事例はわずかに30、大部分は儒教の項目と日本(実際は天皇)の事例である。戊中詔書(1908年)は4回、軍人勅諭は5回、教育勅語は11回も講じられているが、憲法はたった1回。杉浦の憲法軽視がうかがわれる。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.