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演歌師にならなかった父

2024年08月09日 | その日その日

Nikon D5600 / AF-S DX 55-200mm f/4-5.6G ED VR II

私の家族、親類に音楽家はいません。音楽を趣味にしていた人物もいません。両親は音楽には全く関心がありませんでした。
私は、そんな環境で、どういうわけか、音楽に親しみ、バイオリン、チェロ、ピアノと辿ってきたのは、今から思えば父親の影響だったのかも知れないと思えてきました。


私の父親は大正12年(1923)生まれで、埼玉の田舎から上京して浅草で丁稚奉公をしていたと聞きました。その間、バイオリンを習ったことがあるというのです。目的は、どうも当時流行の演歌師になることだったようです。当時はまだバイオリン演歌が流行っていたのでしょう。場所は繁華な浅草ですし。
ところが、なかなか曲を教えてくれなかったのでやめてしまったそうです。おそらく、基礎練習のことなど知る由もなく、すぐ演歌を教えてくれるものと思っていたのだと思います。

そういうわけで、演歌師は誕生しませんでした。以後、父は兵隊にとられ、復員後は国鉄の運転士になって一家を支えました。
しかし、私にバイオリン(写真)を与えてくれたのは父でした。まさか父がバイオリンを買ってくるとは思いもよりませんでしたから、中学生の私は驚きもし喜びもしました。町に楽器店などなかった時代にそれができたのは浅草のことがあったからなのではないかと今では思います。


お盆が近くなったから、こんなことを思い出したのでしょうか。
そう言えば、西洋音楽には全く興味が無かった父でしたが、浪曲は好きでしたし、酔うと古い歌をがなっていました。
酒を飲みながら「いつまでたっても歌を弾かせてくれないからすぐ止めちゃったよ…」そう言って笑っていた父の姿が今でも目に浮かびます。



「最後の演歌師」と言われた桜井敏雄氏の実演です。
そう言えば、父はたまに「らめちゃん~」と歌っていましたね。私には意味が分かりませんでしたが。
また、古賀メロディーが好きだったので時々歌っていましたが(カラオケの無い時代)、その節回しがこの桜井氏に似ていると気が付きました。

桜井敏雄「舟頭小唄」「東京節」


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