認知症の親の奇行を、時には微笑ましく寄り添い、時には嘆きながら、日々の介護生活を綴っている親を介護する子供のブログを見かける事はあるが、認知症になった本人のブログを読んが事が無い。『認知症は、高齢者が発症するすべて忘れてしまう病なのだから当たり前」そう思っていますか。
うちのバァバ(ジィジ)は、何も言わずにテレビばかり見ている。時々何か訳のかからない話しを始める。『もう歳だから』と思いながら、心の隅で『認知症?』と疑っても、本人に向かって認知症とは言えない。どうして、、、。本人が機嫌を悪くするから。
私が、お手伝いをしていたグループホームは、認知症を発症している事が入居の条件です。程度は違っても全員が、認知症を発症しています。しかし、一人も自分が、認知症と言う自覚がありません。『認知症になったら最後だもんね。』と言われる方はいますが、自分の事とは思っていない。
一つ屋根の下で生活をしている身内が、近所の人の目を気にする本人の奇行は、認知症=精神病⇒廃人と思う風潮が有って、日常生活の中で差別される存在だから、本人も家族も認知症と向き合う事をしない。
認知症には、MCIと呼ばれる認知症とも老化とも言えないグレーゾーンの時期があります。まだ、認知力が普通にある初期段階で『認知症=精神病⇒廃人』と絶対になりたくないと不安を感じる事も出来る。不安があっても、周りに話さない。身内もそのことに触れないし考えたくもない。忌み嫌う認知症を、自分の事とブログに書くなんてことはない。
一昔前、癌は不治の病で、家族が癌を発症した家の子に対して「癌が移るからくるな。」と子供達の集まりに参加させてもらえなかったと初老の男性が話してくれた。差別を受けるほど忌み嫌われた癌は、今、患者が闘病記を発表し癌に対する受け止め方が変わた。癌の治療方法が発見され寛解率が上がったからだけでは無い。癌患者が、治療時の身体の辛さ苦しさ、気持ちの苛立ち、不安、心細さを正直に吐露し始めたことが、意味嫌っていた癌と向き合う機会を持たせ、感情で癌を見る事の不条理を考える様になったのだと思う。
認知症は、最終的に身体も動かせ無くなる不治の病。癌とは違うと異論を唱える人もいるでしょう。しかし、人は必ずその命が終わる時が来ます。老衰なのか、病死なのか、不慮の事故死なのか、原因は色々ある。病気なら治療方法を調べたり、名医がいると聞けば診察を受けようと連絡を取り生きる努力をするでしょう。認知症は、病気です。なぜ誰にも言わず隠してしまうのでしょうか。隠すことが出来なくなった時、介護が大変と身内に言わせ、本人の意思など関係なく介護をしてくれる施設を探す。グループホームは、認知症の人達が協力し合って自立した生活を送る支援をする為に作られた施設です。現状は、昼間は共同フロアーで指定された椅子に座り、食事が運ばれれば食事をし、お風呂の順番の声をかけられれば入り、夜になれば部屋に戻り寝る。小規模の老人ホームです。
2025年には、65歳以上の人の3人に1人が認知症になると、発言する研究者もいて誰にでも認知症が発症する可能性があります。認知症=精神病=廃人の考えを変えなければいけない。
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