スロバキアでしたいこと、訪れたい場所、10年あまりこの地で温めていることがいくつかあるのですが、この夏もまた一つ願いが叶いました。
野を越え、山を越え、ポプラドから更に東へ、目指すはメジラボルツェ。
途中ハワイ(Havaj)を通過して
(村の標識、見えませんでしたね。。。でも交通量が少ないのでこんな写真も撮れてしまいます。)
ようやくメジラボルツェ、アンディー・ウォーホル・ミュージアムに着きました。我が家からたった150キロの道のりだけれど、行程の半分しか高速道路がないのでとても遠く感じました。
アンディー・ウォーホルと言えばお土産で購入したマグネットのマリリンモンローやキャンベルのスープの絵でお馴染みですよね。ミュージアム内はほとんど撮影禁止で写真を撮っていませんが、原画や彼の持ち物、家族の写真、当時の書類や新聞記事などが展示されていてとても興味深かったです。共産主義時代の彼の芸術を批判するような新聞記事や、美術館の郵便受け(おそらく美術館のものだったと記憶しています)に投函されていた、「アンディー・ウォーホルの作品よりも村の女性たち(手紙の中では数名の名前があげられています)の刺繍を展示すべきだ」という趣旨の手紙なども展示されていました。それからミュージアム内のところどころにあったテレビを抱えた等身大のパネル、帰ってから調べてみるとアンディー・ウォーホルは来日してTDKのテレビコマーシャルにも出演していたんですね。パネルはそのコマーシャルのものでした。
アメリカ生まれのアンディー•ウォーホルですが、実は両親はスロバキアからの移民で、メジラボルツェ(Medzilaborce)近くのMikova村の出身なのだそうです。そんなわけでこの地に彼のミュージアムがあるんですね。
メジラボルツェはポーランドとの国境近く、ウクライナからは90キロほどのところです。彼の名前、ウォーホルはスロバキアではヴァルホラ、このあたりによくある苗字だそうで、夫の大学の同級生でもやはり同じ村出身のヴァルホラ君がいたということです。この辺りにはルシン人と言われる少数民族がいて、彼の両親もまたそのルシン人でした。彼らの話すルシン語はウクライナ語の方言のようでありながら、別の言語です。私にはウクライナ語とルシン語の区別がつかないのですが、この辺りの標識はスロバキア語とおそらくルシン語、時にスロバキア語、ルシン語、ウクライナ語の3言語で表記されていました。少し前に新聞記事でアメリカのルシン人移民が家族宛てに書いた手紙を目にしましたが、そのルシン語と英語の混ざった文章はまるで私と夫の言語のようで笑いながら読みました。ルシン語はスロバキア語にもとても近いのでルシン語部分も読めば私もほとんど意味を理解することができました。
それにしても、車があり、舗装道路もある今ですら、ポプラドからたった150キロ移動するだけでも私には長い長い道のりに感じられたのに、当時アメリカへ渡った彼らは電車も走っていないこのスロバキア東部の村からおそらくドイツまで陸路を移動し、その後船でアメリカへ渡ったその道のりは本当に長いものだったのでしょうね。でも彼らがアメリカへ渡っていなければ、アンディー・ウォーホルのポップアートだって生まれていなかったでしょう。
今回のミュージアム、ミュージアム自体も興味深かったですが、スロバキアでも特別なこの地域を訪れたという意味でもおもしろいものでした。
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