えんじゃけん

「ひばり」その3~舞台の時間軸について

私が今、考えているのが、舞台の時間軸です。
あと、ジャンヌはジャンヌなのか?ということ。
かなり、自分の考えで語っていますので、
真に受けないでくださいね。
まだよく分からない部分なので考え中の部分です。

舞台が始まると、役者たちがなんとなく入ってきて、
よろいを身に着けたり、服を調えたりと身支度から
入るんです。
そのときの役者ってその役そのものなのか?
あるいは、単に役者なのか?それがイマイチ分からない。
それを今度見に行ったときは、気にしながら見たい。

あと、時間軸がよく分からないところがある。
異端者審判が進んでいくわけだけど、ジャンヌが裁かれていて、
ジャンヌが今まであったことを演じながら証言しているのは
分かるんです。
分かるんですけど、異端者だということで火あぶりが
決定しますよね。
その時点では、もうシャルル王の戴冠式は済んでいるはずなんですけど、
火にかけられたそのときに、ジャンヌを裏切ったかもしれないといわれていた
戦友がそれを中断させるんですよね。
待ってくれ、戴冠式をさせてくれって。

・・・これって、その異端者審判で戴冠式が語られなかったから、
それを語らせてくれっていう止めだったのか、
それとも、現在が戴冠式の時期で今までのは、芝居だったのか、
あるいは、ジャンヌではなく、ジャンヌを演じる役者たちの話で、
ジャンヌダルクといえば、火刑よりも戴冠式だろって感じで終わりなのか?
ちょっとそこらがよく分からなかった。
ラストシーンではバックの大きな十字架が初めて赤い色に光ります。
それまでは白い光でしか光らないんだけど・・・。

最初の登場シーンを見ると、串田和美演出の「セツアンの善人」を
思い出した。あれは、旅芸人が「セツアンの善人」を即興劇みたいな
形でするってものだった。
この「ひばり」もそうなのだろうか?
いや、旅芸人っていうんでなく、役者が役者を演じ、その役者が役を
演じるといった二重構造なのか?
演じて説明するあたりは、松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」も
思い出しました。
ちょっと、そこらへんが、この「ひばり」ははっきりしないんですよね。
だから、ラストシーンであっけにとられる人がいるのだろう。

パンフにそのヒントとなる文章が書かれてあった。

「『ひばり』の舞台上の設定では、ルーアンでの裁判における
予備審理、異端裁判、処刑のプロセスが大枠の「現在」の
時間である。その中に、ジャンヌの過去の物語が挿入され、
「現在」や「未来」からのコメントが加えられる。その
大枠の時間も実は演じられていることにすぎないことが、
最初の全員の登場の仕方や最後のボートリクールの闖入に
よって明示されている。」

・・・・それで?
と、理解できない私なのでした。
つまりは、全部は劇中劇で、「ラストは楽しくしよう!」という
劇中劇中の(←こんな言葉はありませんが)ボートリクール役の
人の提案でそうなったって感じなのか?
少しここらは分かりづらい。

いろいろ考えてみて、「セツアンの善人」のような
劇中劇で、悲惨な物語の終わりにするのではなく、
明るい希望のある終わりにしよう!っていう
芝居だったのかなぁと今は思います。
いろいろな人に裏切られて火あぶりに決まりかけ、
教会の申し出を受け入れることで、一度救われたものの、
自分らしさ(神の声が聞こえない)を失ったジャンヌは
生きていく希望を失いどん底だった。
それが嫌になって自分から異端行為を起こし、死刑が決まり、
火あぶりにされるのだが・・・
そんな終わりでは、ジャンヌは不幸としか思えない。
だから、ジャンヌが一番輝いていた時期をラストにして
明るくて楽しい希望のあるラストにしたのかなと。
その終わりはジャンヌの心をも表しているのかもしれない、
そして、ジャンヌ以外の人々の想いも表した終わりなのかも
しれない・・・ジャンヌは決して悲惨な人生を歩んだ人では
ないということを、そして、彼女は彼女らしく生きて
想いを達したんだということを・・・。

まだ、一度しか見てないので、今後感想が変わる可能性は
大ですが、いろいろ考えてみて今はそう思っています。
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