観光地などに行くのではなく、それぞれの自宅周辺の人出がない道を散策してみようよ!
「一人で歩こう!」
散策しながら、写真を撮ったり、自分の街の歴史について考えてみる!
天気が良く、人通りの少ない道ならお散歩も気持ちいいですね。別に観光地に行く必要なんてない!
電車やバスに乗らなくていいし、普段は気が付かないことも発見できたりします。
私の住んでいるところは、昔は宿場町として大いに栄えたところでした。その関係の案内もたくさんあります。
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この案内があったところに、将軍の御殿があり、家康なども宿として使っていたようです。
案内があるのは知っていましたが、今回はそのあたりを歩いてみました。6000坪の広さがあったようですが、今は普通の家が密集して立っていました。
後から聞いたところによりますと、御殿は、その後本格的な陣屋が出来たことでつかわれなくなり、土地をバラして売ってしまったようですが、その時、買う人たちが出来るだけ大きい土地を確保したいがために、可能な限り区画の中を通る道を削ってしまったそうです。
今もその付近の道は「なにこれ?」というほど細い道になっています。
近くの市民病院のバス停には、その当時の絵図が大きく案内に掲げられているので、それを見に行ってきました。
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この中の図の一つに今の我が家周辺が描かれています。
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緑の矢印が前述の御殿、オレンジの矢印がその後新しくできた本陣、ブルーの矢印が現在もある白旗神社。赤い丸の上部分には妙善寺が描かれています。
妙善寺は現在もあります。行ってみました。
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大きな桜の木が2本と銀杏の木が1本あります。かなり大きいので、きっと当時からあったのでしょうね。春にはきれいな桜を楽しめます。
描かれている白旗神社です。
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あれ?新しく弁慶と頼経の像が新しくできてる!
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この神社は、平泉でなくなった義経の首が流れ着き、ここで葬られたという伝説がある神社です。義経伝説は日本各地にありますね。
神社でこれを見つけました。
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やっほ~!私は二黒土星です。今年も強運が舞い込みそうな(w)
ここからは、ちょっと面白い小話。
江戸・明治・昭和初期の時代、まだ一般の観光旅行がちょっと贅沢だった時代。
このころ各地には、冠婚葬祭を執り行う、今でいう町内会のような「講中」という組織があり(今も講中があるところがあります)、その団体ごとに「大山詣→江ノ島詣→戸塚宿あそび」というコースが
当時のイケてる観光旅行だったようです。年や季節ごとに「この講中はこの時期」と、宿屋などでは講中ごとに予約というほどではないですが、重ならないように来る時期や年が決まっていたようです。大山に行って、江ノ島神社に行って、最後に戸塚の宿で女遊び・・ということでしたから、むろん講中の中でも男衆グループだけで行きたいわけです。そこでできた話が、「江ノ島神社は女性の神様・弁天様だから、お前を連れて行くと弁天様がやきもちを焼いて夫婦仲を悪くするらしい。大事なお前を連れて、不仲になることになっては忍びない。ここはぜひ、留守番しておいておくれ」と、当時のイケてる男衆は、奥方殿に言い訳することになるわけです。それで、江ノ島神社は昔「縁切り」と言われていました。現在は縁結びの神様として、神奈川屈指のデートコースになっています。
むかしから住んでいるご近所さんの話によりますと・・もともと藤沢宿は1号線沿いのこのあたりが栄えていたのですが、遊郭が出来るころになると「風紀上良くない」と現在の藤沢駅のあたりに遊郭だけを移したらしいです。すると、遊郭街のほうが栄えてしまって、藤沢駅はそっちに作ったようです。近所のおばあちゃんが「藤沢駅の方に行くと、ウナギの寝床のような家がいっぱい立っていて、女郎さんが手招きしていた。自分の父親がその道を通る時に、子供を連れていると袖を引っ張られないから、子供の私を連れてよくその道を通って買い物に行っていた」と話していました。
藤沢宿について小説でも取り上げられています。私の好きな岩波正太郎の「鬼平犯科帳」や島遼太郎の「風の武士」にも出てくるのですが・・
実は下記のように、人名を「蒔田源左衛門」というのを「前田源左衛門」とうっかりまちがいしたまま、つかわれていたそうです。
「まいた」と「まえだ」・・確かに間違えやすい・・面白い。
_____________________________________________
池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』文庫巻15の長篇[雲竜剣]p208 新装版p216に、
相州・藤沢宿〔前田源左衛門〕は、火付盗賊改方の連絡所にな
っていて---
とある〔前田源左衛門〕は、じつは〔蒔田源左衛門〕を誤記したものであることがわかる。
誤記の<源(みなもと)> は、岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房)にあるようだ。
同書はじつによくできた編著書で、時代小説家が重宝してしばしば利用している。
が、千慮の一失であろうか、たった一字、藤沢宿の本陣<蒔田源左衛門>を、<前田>と誤植しているのである。
碩学のあの司馬遼太郎さんも、初期作品『風の武士』(1960 講談社文庫)上巻p242で、
藤沢の宿(しゅく)は、江戸から十ニ里ある。昼夜を通してこ
の宿まできた紀州隠密の一行は、ちのの乗物をかこんで、
本陣前田源左衛門屋敷の門をくぐった。
と、 同書にしたがって〔前田源左衛門〕としているのである。
____________________________________________________________
以下、興味のある方は読んでみてください。
藤沢宿の紹介
藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場です。
すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置くなど、交通上の要地ではありましたが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立しました。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていました(17世紀半ばに廃止)。
宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附まででした。
藤沢宿の規模
江戸時代の藤沢宿は、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」に、宿内人口4,089人(男2,046人、女2,043人)で、総家数919軒、旅籠(はたご)45軒、大名や公用の旅客の宿泊施設である本陣が1軒、脇本陣が1軒と記されています(享和3年(1803年)の記録では脇本陣は2軒)。
同書から神奈川県内各宿場の人口・家数・旅籠数を見ると次のとおりで、当時の藤沢宿は、人口では城下町であった小田原宿、大きな湊でもあった神奈川宿に次いで多かったものの旅籠数は比較的少なかったことが判ります。
県内各宿場の規模
人口 家数 旅籠数
川崎宿 2,433人 541軒 72軒
神奈川宿 5,793人 1,341軒 58軒
保土ヶ谷宿 2,928人 558軒 67軒
戸塚宿 2,906人 613軒 75軒
藤沢宿 4,089人 919軒 45軒
平塚宿 2,114人 443軒 54軒
大磯宿 3,056人 676軒 66軒
小田原宿 5,404人 1,542軒 95軒
箱根宿 844人 197軒 36軒
藤沢宿の特色
(1)江戸方口にある清浄光寺(しょうじょうこうじ。通称は遊行寺)
「東海道宿村大概帳」は、藤沢宿の名物を「大山詣で(もうで)、江ノ島弁財天詣で」と記していますが、江戸時代の藤沢宿の特色の一つは多くの道が集まる場所であったことです。メインの東海道を西へ、四ツ谷から北東に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、南へ下る江の島道(江島神社へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあり、流通の中心地となりました。
(3)京方口近くにある「義経首塚及び首洗い井戸」とゆかりの白旗神社(義経を祭神とする)
当時の代表的な名所・旧跡としては、(1)江戸方口にある清浄光寺(しょうじょうこうじ。通称は遊行寺)、(2)宿場から一里ほど南へ歩いたところにある江の島(江島神社)を象徴する一ノ鳥居、(3)京方口近くにある「義経首塚及び首洗い井戸」とゆかりの白旗神社(義経を祭神とする)の三つが挙げられ、いずれも浮世絵に描かれたり、道中記(旅行案内書)に記されたりしています。遊行寺については寺院への参詣とともに、同寺ゆかりの「小栗判官照手姫」の旧跡が観光のメインでした。また、宿場の西の立場(たてば。宿と宿の間の休憩地、人馬の継ぎ立て場)であった四ツ谷(大山道の分岐点(追分)でもある)や南湖(茅ヶ崎市)の松並木、左富士も藤沢宿の名所として浮世絵などに紹介されています。
近代の旧藤沢宿地区
ふじさわ宿交流館
地域における流通の中心地であった旧藤沢宿地区は、明治時代になって宿駅制度が廃止されたのちも賑わいを保ち、周辺の農村地帯からの麦・米等の農産物を買い取る一方、農産に必要な肥料等の販売を行う「米穀肥料商」が繁盛し、資本を形成しました。
明治20年(1887年)に宿場の南に鉄道の駅(藤沢停車場)ができると、徒歩による街道の通行者は減少しますが、旧藤沢宿地区は問屋街に転身して、地の利を生かした広範な商品流通の場となり、地元資本による銀行の設立など、地域経済の核としての役割を担うようになりました。
その後、大正12年(1923年)の関東大震災による被災に加え、昭和初期の経済恐慌のあおりを受けた銀行の倒産など、繁栄にもかげりが見え出し、明治41年(1908年)に誕生した高座郡藤沢町(旧宿場地区と鵠沼村、明治村が合併)の賑わいの中心は、町南部の観光地化、別荘地化とも相まって、次第に南の藤沢駅周辺に移行していきました。
「一人で歩こう!」
散策しながら、写真を撮ったり、自分の街の歴史について考えてみる!
天気が良く、人通りの少ない道ならお散歩も気持ちいいですね。別に観光地に行く必要なんてない!
電車やバスに乗らなくていいし、普段は気が付かないことも発見できたりします。
私の住んでいるところは、昔は宿場町として大いに栄えたところでした。その関係の案内もたくさんあります。
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この案内があったところに、将軍の御殿があり、家康なども宿として使っていたようです。
案内があるのは知っていましたが、今回はそのあたりを歩いてみました。6000坪の広さがあったようですが、今は普通の家が密集して立っていました。
後から聞いたところによりますと、御殿は、その後本格的な陣屋が出来たことでつかわれなくなり、土地をバラして売ってしまったようですが、その時、買う人たちが出来るだけ大きい土地を確保したいがために、可能な限り区画の中を通る道を削ってしまったそうです。
今もその付近の道は「なにこれ?」というほど細い道になっています。
近くの市民病院のバス停には、その当時の絵図が大きく案内に掲げられているので、それを見に行ってきました。
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この中の図の一つに今の我が家周辺が描かれています。
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緑の矢印が前述の御殿、オレンジの矢印がその後新しくできた本陣、ブルーの矢印が現在もある白旗神社。赤い丸の上部分には妙善寺が描かれています。
妙善寺は現在もあります。行ってみました。
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大きな桜の木が2本と銀杏の木が1本あります。かなり大きいので、きっと当時からあったのでしょうね。春にはきれいな桜を楽しめます。
描かれている白旗神社です。
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あれ?新しく弁慶と頼経の像が新しくできてる!
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この神社は、平泉でなくなった義経の首が流れ着き、ここで葬られたという伝説がある神社です。義経伝説は日本各地にありますね。
神社でこれを見つけました。
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やっほ~!私は二黒土星です。今年も強運が舞い込みそうな(w)
ここからは、ちょっと面白い小話。
江戸・明治・昭和初期の時代、まだ一般の観光旅行がちょっと贅沢だった時代。
このころ各地には、冠婚葬祭を執り行う、今でいう町内会のような「講中」という組織があり(今も講中があるところがあります)、その団体ごとに「大山詣→江ノ島詣→戸塚宿あそび」というコースが
当時のイケてる観光旅行だったようです。年や季節ごとに「この講中はこの時期」と、宿屋などでは講中ごとに予約というほどではないですが、重ならないように来る時期や年が決まっていたようです。大山に行って、江ノ島神社に行って、最後に戸塚の宿で女遊び・・ということでしたから、むろん講中の中でも男衆グループだけで行きたいわけです。そこでできた話が、「江ノ島神社は女性の神様・弁天様だから、お前を連れて行くと弁天様がやきもちを焼いて夫婦仲を悪くするらしい。大事なお前を連れて、不仲になることになっては忍びない。ここはぜひ、留守番しておいておくれ」と、当時のイケてる男衆は、奥方殿に言い訳することになるわけです。それで、江ノ島神社は昔「縁切り」と言われていました。現在は縁結びの神様として、神奈川屈指のデートコースになっています。
むかしから住んでいるご近所さんの話によりますと・・もともと藤沢宿は1号線沿いのこのあたりが栄えていたのですが、遊郭が出来るころになると「風紀上良くない」と現在の藤沢駅のあたりに遊郭だけを移したらしいです。すると、遊郭街のほうが栄えてしまって、藤沢駅はそっちに作ったようです。近所のおばあちゃんが「藤沢駅の方に行くと、ウナギの寝床のような家がいっぱい立っていて、女郎さんが手招きしていた。自分の父親がその道を通る時に、子供を連れていると袖を引っ張られないから、子供の私を連れてよくその道を通って買い物に行っていた」と話していました。
藤沢宿について小説でも取り上げられています。私の好きな岩波正太郎の「鬼平犯科帳」や島遼太郎の「風の武士」にも出てくるのですが・・
実は下記のように、人名を「蒔田源左衛門」というのを「前田源左衛門」とうっかりまちがいしたまま、つかわれていたそうです。
「まいた」と「まえだ」・・確かに間違えやすい・・面白い。
_____________________________________________
池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』文庫巻15の長篇[雲竜剣]p208 新装版p216に、
相州・藤沢宿〔前田源左衛門〕は、火付盗賊改方の連絡所にな
っていて---
とある〔前田源左衛門〕は、じつは〔蒔田源左衛門〕を誤記したものであることがわかる。
誤記の<源(みなもと)> は、岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房)にあるようだ。
同書はじつによくできた編著書で、時代小説家が重宝してしばしば利用している。
が、千慮の一失であろうか、たった一字、藤沢宿の本陣<蒔田源左衛門>を、<前田>と誤植しているのである。
碩学のあの司馬遼太郎さんも、初期作品『風の武士』(1960 講談社文庫)上巻p242で、
藤沢の宿(しゅく)は、江戸から十ニ里ある。昼夜を通してこ
の宿まできた紀州隠密の一行は、ちのの乗物をかこんで、
本陣前田源左衛門屋敷の門をくぐった。
と、 同書にしたがって〔前田源左衛門〕としているのである。
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以下、興味のある方は読んでみてください。
藤沢宿の紹介
藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場です。
すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置くなど、交通上の要地ではありましたが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立しました。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていました(17世紀半ばに廃止)。
宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附まででした。
藤沢宿の規模
江戸時代の藤沢宿は、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」に、宿内人口4,089人(男2,046人、女2,043人)で、総家数919軒、旅籠(はたご)45軒、大名や公用の旅客の宿泊施設である本陣が1軒、脇本陣が1軒と記されています(享和3年(1803年)の記録では脇本陣は2軒)。
同書から神奈川県内各宿場の人口・家数・旅籠数を見ると次のとおりで、当時の藤沢宿は、人口では城下町であった小田原宿、大きな湊でもあった神奈川宿に次いで多かったものの旅籠数は比較的少なかったことが判ります。
県内各宿場の規模
人口 家数 旅籠数
川崎宿 2,433人 541軒 72軒
神奈川宿 5,793人 1,341軒 58軒
保土ヶ谷宿 2,928人 558軒 67軒
戸塚宿 2,906人 613軒 75軒
藤沢宿 4,089人 919軒 45軒
平塚宿 2,114人 443軒 54軒
大磯宿 3,056人 676軒 66軒
小田原宿 5,404人 1,542軒 95軒
箱根宿 844人 197軒 36軒
藤沢宿の特色
(1)江戸方口にある清浄光寺(しょうじょうこうじ。通称は遊行寺)
「東海道宿村大概帳」は、藤沢宿の名物を「大山詣で(もうで)、江ノ島弁財天詣で」と記していますが、江戸時代の藤沢宿の特色の一つは多くの道が集まる場所であったことです。メインの東海道を西へ、四ツ谷から北東に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、南へ下る江の島道(江島神社へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあり、流通の中心地となりました。
(3)京方口近くにある「義経首塚及び首洗い井戸」とゆかりの白旗神社(義経を祭神とする)
当時の代表的な名所・旧跡としては、(1)江戸方口にある清浄光寺(しょうじょうこうじ。通称は遊行寺)、(2)宿場から一里ほど南へ歩いたところにある江の島(江島神社)を象徴する一ノ鳥居、(3)京方口近くにある「義経首塚及び首洗い井戸」とゆかりの白旗神社(義経を祭神とする)の三つが挙げられ、いずれも浮世絵に描かれたり、道中記(旅行案内書)に記されたりしています。遊行寺については寺院への参詣とともに、同寺ゆかりの「小栗判官照手姫」の旧跡が観光のメインでした。また、宿場の西の立場(たてば。宿と宿の間の休憩地、人馬の継ぎ立て場)であった四ツ谷(大山道の分岐点(追分)でもある)や南湖(茅ヶ崎市)の松並木、左富士も藤沢宿の名所として浮世絵などに紹介されています。
近代の旧藤沢宿地区
ふじさわ宿交流館
地域における流通の中心地であった旧藤沢宿地区は、明治時代になって宿駅制度が廃止されたのちも賑わいを保ち、周辺の農村地帯からの麦・米等の農産物を買い取る一方、農産に必要な肥料等の販売を行う「米穀肥料商」が繁盛し、資本を形成しました。
明治20年(1887年)に宿場の南に鉄道の駅(藤沢停車場)ができると、徒歩による街道の通行者は減少しますが、旧藤沢宿地区は問屋街に転身して、地の利を生かした広範な商品流通の場となり、地元資本による銀行の設立など、地域経済の核としての役割を担うようになりました。
その後、大正12年(1923年)の関東大震災による被災に加え、昭和初期の経済恐慌のあおりを受けた銀行の倒産など、繁栄にもかげりが見え出し、明治41年(1908年)に誕生した高座郡藤沢町(旧宿場地区と鵠沼村、明治村が合併)の賑わいの中心は、町南部の観光地化、別荘地化とも相まって、次第に南の藤沢駅周辺に移行していきました。
素晴らしレポート ゆっくり歩くのは発見があっていいよね
私も横浜に引っ越したとき 毎日 そこいらじゅうを歩きました 迷子になりそうな位あるきました 日本なので歩いていればどこかに出るし 看板も読めるし どうにか家にたどり着くだろうと わざわざ知らない道を歩いたものです
天気が良かった19日は湘南の海沿い観光地はおバカな方々でいっぱいのようでしたね
いろいろ考えればそんな派手なところに出向かなくてもよい過ごし方があるのにね
追伸 歴史は詳しくないし おバカなので せっかくの詳しい記述 頭に入りません(-_-メ)
最後の追伸には爆笑~!