やっと片付けた。今夕方の7時半、この間に夕食の支度をして風呂にも入った。その後、後少しで仕上げというところをやっと片付けた。
原稿作る間、新聞2紙も読んだ。コーヒーも飲んだ。
これをしなかったらもっと早くに仕上げることができたが新聞は読める時間に読まないと読む機会を外してしまう。
手短でも目を通さないと落ち着かない。
ときどき情報もれをしていることもあるので日本の新聞から情報収集していることもあるので
夫が戻ってきたのでブログの書き込みは中断して夕食にした。
夫は9時に床についたのに私はテレビを見たり片付け物をしていた。そして10時から「日本のうた」がある。今日の1人舞台は「岸壁の母」を歌っている大物の歌手の名前がでていた。毎週みないのに今日は見たいと思った。「岸壁の母」を聞きたいと思った。いつ聞いても涙がでてくる歌である。
歌手の名前、今まで見ていたのに名前を忘れてしまった。
今日は「長編-母の叫び―岸壁の母」、今年作られた歌をたっぷり長編でカットなしに歌われた。よかった。戦争ははるか遠い記憶になったのにこの歌を聞くと戦争という言葉が浮かびあがってくる。
そして舞鶴に引き上げ戦の時代を思い出す。戦後まだ10年も経っていないのに多くの日本人が引き上げてきた。私の小学校3年のとき転校生が入ってきた。4年のときに同じクラスになった。女の子だった。少しまだ日本語が不自由だった。
中国からの引き揚げ者だった。5年生からクラスは離れ中学の時も離れた。彼女とそれから会ったことがない。どうしているのだろうかと思い出していた。
この歌を聞くと涙がでてくる。なぜかしらないけれど涙がでてくる。テレビに映る会場の人も涙を拭いている人もいた。それぞれの人生に何かの形で「あの戦争」を覚えている。年月は経って記憶ははるか遠くになっていても歌や語りでまたその時代を思い出している。
こんな時代を過ごしてきたことを現在の若者たちは理解できないだろう。
しかし日本の国が貧しかった時代に私は育った。また今団塊の世代の人たちもこの時代を知っている。路地裏から夕食の匂いがした木造建築の並ぶ町の中で育った。大通りにでても車のあまり通らない町の中で育った。
思い起こすとこんなに繁栄した日本の国を創造できなかった。
もし創造することができたら在日同胞は北朝鮮に帰らないで日本で働いていただろう。北に帰った同胞たち、日本の国はこんなにもこんなにも豊かになったのに路頭に迷う同胞、噂によるとどこかで脱北する機会を探しているとも聞いている。
「岸壁の母」の歌を聞いてまた北に帰った同胞たちで胸が痛む。
戦争は人の人生を変えてしまう。
子どもの頃、傷痍軍人が私の家の前でバイオリンを長いこと弾いていることがあった。親は働きに行って誰もいなかった。
会社勤めから帰ってきた父にこのことを話した。父は黙って聞いていた。
私が大分大きくなってから父は子どもたちに話した。
日本人は軍人恩給とかもらえるが在日朝鮮人はもらえない。それに怪我しても何の生活保障もない。町の中で楽器を鳴らして物乞いをしているのは大半が朝鮮人の傷痍軍人であると父は話した。そして日本の兵隊として引っ張られていったのに外国人とみなす機構で外国人にされて軍人恩給もない日本政府の差別を話してくれたことがあった。
また私はこの頃、人事のように聞いていたが在日韓国人の新聞記者になって父が話していた保障のない在日韓国人の負傷した元軍人の裁判訴訟、現場で父の言っていた意味がやっと理解できた。
それから昔の古い映画の中にでてくる傷痍軍人の姿に在日朝鮮人と重ね合わせている。
こんなことを思い出す「岸壁の母」の歌である。
この歌は実話をもとに創作されたので舞鶴の港に立っていた母親の姿が子どものころ新聞で見たので余計に当時の日本を思い出して涙がこぼれそうになった。
この番組が終わったのは11時半、それからこの書き込みをしている。
歌番組を見ながらFAXを流したりしながら見ていた。
明日は土曜日、鶴橋で仕事がある。2時からになるが適当な時間に会場を出たいがその時にならないと分からない。
さあ。この辺で書き込みを終えて休むことにしよう。
原稿作る間、新聞2紙も読んだ。コーヒーも飲んだ。
これをしなかったらもっと早くに仕上げることができたが新聞は読める時間に読まないと読む機会を外してしまう。
手短でも目を通さないと落ち着かない。
ときどき情報もれをしていることもあるので日本の新聞から情報収集していることもあるので
夫が戻ってきたのでブログの書き込みは中断して夕食にした。
夫は9時に床についたのに私はテレビを見たり片付け物をしていた。そして10時から「日本のうた」がある。今日の1人舞台は「岸壁の母」を歌っている大物の歌手の名前がでていた。毎週みないのに今日は見たいと思った。「岸壁の母」を聞きたいと思った。いつ聞いても涙がでてくる歌である。
歌手の名前、今まで見ていたのに名前を忘れてしまった。
今日は「長編-母の叫び―岸壁の母」、今年作られた歌をたっぷり長編でカットなしに歌われた。よかった。戦争ははるか遠い記憶になったのにこの歌を聞くと戦争という言葉が浮かびあがってくる。
そして舞鶴に引き上げ戦の時代を思い出す。戦後まだ10年も経っていないのに多くの日本人が引き上げてきた。私の小学校3年のとき転校生が入ってきた。4年のときに同じクラスになった。女の子だった。少しまだ日本語が不自由だった。
中国からの引き揚げ者だった。5年生からクラスは離れ中学の時も離れた。彼女とそれから会ったことがない。どうしているのだろうかと思い出していた。
この歌を聞くと涙がでてくる。なぜかしらないけれど涙がでてくる。テレビに映る会場の人も涙を拭いている人もいた。それぞれの人生に何かの形で「あの戦争」を覚えている。年月は経って記憶ははるか遠くになっていても歌や語りでまたその時代を思い出している。
こんな時代を過ごしてきたことを現在の若者たちは理解できないだろう。
しかし日本の国が貧しかった時代に私は育った。また今団塊の世代の人たちもこの時代を知っている。路地裏から夕食の匂いがした木造建築の並ぶ町の中で育った。大通りにでても車のあまり通らない町の中で育った。
思い起こすとこんなに繁栄した日本の国を創造できなかった。
もし創造することができたら在日同胞は北朝鮮に帰らないで日本で働いていただろう。北に帰った同胞たち、日本の国はこんなにもこんなにも豊かになったのに路頭に迷う同胞、噂によるとどこかで脱北する機会を探しているとも聞いている。
「岸壁の母」の歌を聞いてまた北に帰った同胞たちで胸が痛む。
戦争は人の人生を変えてしまう。
子どもの頃、傷痍軍人が私の家の前でバイオリンを長いこと弾いていることがあった。親は働きに行って誰もいなかった。
会社勤めから帰ってきた父にこのことを話した。父は黙って聞いていた。
私が大分大きくなってから父は子どもたちに話した。
日本人は軍人恩給とかもらえるが在日朝鮮人はもらえない。それに怪我しても何の生活保障もない。町の中で楽器を鳴らして物乞いをしているのは大半が朝鮮人の傷痍軍人であると父は話した。そして日本の兵隊として引っ張られていったのに外国人とみなす機構で外国人にされて軍人恩給もない日本政府の差別を話してくれたことがあった。
また私はこの頃、人事のように聞いていたが在日韓国人の新聞記者になって父が話していた保障のない在日韓国人の負傷した元軍人の裁判訴訟、現場で父の言っていた意味がやっと理解できた。
それから昔の古い映画の中にでてくる傷痍軍人の姿に在日朝鮮人と重ね合わせている。
こんなことを思い出す「岸壁の母」の歌である。
この歌は実話をもとに創作されたので舞鶴の港に立っていた母親の姿が子どものころ新聞で見たので余計に当時の日本を思い出して涙がこぼれそうになった。
この番組が終わったのは11時半、それからこの書き込みをしている。
歌番組を見ながらFAXを流したりしながら見ていた。
明日は土曜日、鶴橋で仕事がある。2時からになるが適当な時間に会場を出たいがその時にならないと分からない。
さあ。この辺で書き込みを終えて休むことにしよう。
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