昼から新聞読んでいて少しウトウトすると固定電話がなった。
仕事の電話だった。
それから寝ようとするが寝られない。
10分ほどしてまた目が覚めたので2時20分に起きてパソコンの前に座った。
1昨日も昨日もゆっくり見ていなかった韓国のインタネーとの新聞。
パソコンを開けてゆっくり見ていると時間はどんどん過ぎていく。
今日は久しぶりに鰯のから揚げをしょうかなと思っている。
たまに手をかけたものにしないといけない。
いつもバタバタと食材を作っている。
時間があった時は私の体調がいいことがなかったので簡単に出来る物で済ませていた。少しずつ涼しくなってきたので煮炊き物のおかずを作って鍋に入れておいも保存できるようになってきた
夏は夕方作ると翌日の朝まで。これが過ぎると冷蔵庫に保存。しかも朝、温めて冷ましてからの保存で手間がかかった。
仕事のある時は鍋に煮炊き物を入っていることを忘れて温めもしないで出かけて夕方戻るともういたんでいた。捨てるしかないのです。
明日は病院行き、明後日は家にいるが木曜日の連載を作らないといけない。
その翌日は京都、久しぶりに鴨川の近く出町柳で降りる。
1989年から1992年の4年間、京都を毎日ほど駆けずり回った。
いろんなことがあった。私がまだまだ若かった。
43歳から4年間、若い時代だった。多くの人にお世話になった。
その時、若かった人たちが今、在日韓国人の中で役員をして活動しておられる。
時代の流れを感じる。
そして私はどれほどの多くの人たちに助けられて今日、今も仕事が出来る環境をひしひしと感じている。若いから無茶なこともあった。
無理を通せばなんでもできると思った。
無理を通せば必ずその反動がくることも学んだ。
私にいろんなことを教えてもらった京都の現場だった。
泣きたくて死にたいくらい辛いときもあった。
どれほど仕事をやめて普通の主婦に戻ろうかとも考えた。
しかしここでやめたら何も残らない自分をよく知っていた。
踏ん張って辛い気持ちを心に溜め込んで京都の現場をまわった。
糺の森を歩きながら涙を幾度も流した。鴨川の土手を歩きながらいろんなことを考えた。いろんな考え方の人がいる。ここは辛抱しなければ自分のやりたいことができないと思うようになった。在日韓国人の日刊紙の新聞社を辞めて京都の現場は少なくなった。大阪・神戸とよくまわったが神戸の現場の遠さに閉口しているときに若い記者が神戸を回るようになって少し体が楽になった。
そして60歳を過ぎて夜の現場も控えるようになった。
私より5歳上の夫の体調を気にするようになって夜はなるべく私が家にいて夫の食事管理をするようにしてきた。
それで夫の高血圧は薬を飲んでいるが普通に戻ってきた。
私がいないと夫の食事は肉に刺身と野菜が少ない。ビールの本数も止める人がいないと飲んでいる。そんなことで夜の外出を控えるようになった。
京都に来ると日夜、駈けずりまわっていた43歳からの4年間を思い出してしまう。
私が京都をかけずりまわっていた頃、婦人会に常駐している女子事務員さんが婦人会会館に訪れる人の昼食を作っていた。
よくここで頂いた。私の口にすんなり入っていく韓国料理だった。
作っている人は新渡日の韓国人、在日韓国人と結婚していた。慶尚南道馬山市が故郷、味付けが実家や夫の姑の味付けに似ていた。
私の父親の故郷は馬山からまだ奥に入った晋州市である。昔は市ではなかった。
山の中の田舎だった。山を越えたところなので味付けが似ていたのか。
口に合ってよく頂いた。
その女子事務職員さん。ご主人が亡くなって小学生の子どもを連れて故郷の馬山市に帰国された。あれからもう20年近く経っている。小学生の子どもさんも大きくなって今は大学生かも知れない。日本語を忘れているかもしれない。
当時は私と同じで韓国語があまりできなくて日本語の方が上手だった。
先日、何年ぶりかにこの会館を訪問した。人が生きてきたそして活動してきた歴史が積み重ねられていた。
私の年を考えると当たり前のことだが時代がその昔にストップして何かしら懐かしくも切なくも思っていた。
今年は韓国に行かないで来年を迎えることになりそうだが今年は秋か冬に国内のどこかに夫と美味しいものでも食べにいこうかとも思っている。
年を重ねた私、仕事に燃えていた時は夜も仕事をしたかったがそんな迫力も加齢とともに消えうせている。老いとはこんなことなのだろうかと思っている。
仕事の電話だった。
それから寝ようとするが寝られない。
10分ほどしてまた目が覚めたので2時20分に起きてパソコンの前に座った。
1昨日も昨日もゆっくり見ていなかった韓国のインタネーとの新聞。
パソコンを開けてゆっくり見ていると時間はどんどん過ぎていく。
今日は久しぶりに鰯のから揚げをしょうかなと思っている。
たまに手をかけたものにしないといけない。
いつもバタバタと食材を作っている。
時間があった時は私の体調がいいことがなかったので簡単に出来る物で済ませていた。少しずつ涼しくなってきたので煮炊き物のおかずを作って鍋に入れておいも保存できるようになってきた
夏は夕方作ると翌日の朝まで。これが過ぎると冷蔵庫に保存。しかも朝、温めて冷ましてからの保存で手間がかかった。
仕事のある時は鍋に煮炊き物を入っていることを忘れて温めもしないで出かけて夕方戻るともういたんでいた。捨てるしかないのです。
明日は病院行き、明後日は家にいるが木曜日の連載を作らないといけない。
その翌日は京都、久しぶりに鴨川の近く出町柳で降りる。
1989年から1992年の4年間、京都を毎日ほど駆けずり回った。
いろんなことがあった。私がまだまだ若かった。
43歳から4年間、若い時代だった。多くの人にお世話になった。
その時、若かった人たちが今、在日韓国人の中で役員をして活動しておられる。
時代の流れを感じる。
そして私はどれほどの多くの人たちに助けられて今日、今も仕事が出来る環境をひしひしと感じている。若いから無茶なこともあった。
無理を通せばなんでもできると思った。
無理を通せば必ずその反動がくることも学んだ。
私にいろんなことを教えてもらった京都の現場だった。
泣きたくて死にたいくらい辛いときもあった。
どれほど仕事をやめて普通の主婦に戻ろうかとも考えた。
しかしここでやめたら何も残らない自分をよく知っていた。
踏ん張って辛い気持ちを心に溜め込んで京都の現場をまわった。
糺の森を歩きながら涙を幾度も流した。鴨川の土手を歩きながらいろんなことを考えた。いろんな考え方の人がいる。ここは辛抱しなければ自分のやりたいことができないと思うようになった。在日韓国人の日刊紙の新聞社を辞めて京都の現場は少なくなった。大阪・神戸とよくまわったが神戸の現場の遠さに閉口しているときに若い記者が神戸を回るようになって少し体が楽になった。
そして60歳を過ぎて夜の現場も控えるようになった。
私より5歳上の夫の体調を気にするようになって夜はなるべく私が家にいて夫の食事管理をするようにしてきた。
それで夫の高血圧は薬を飲んでいるが普通に戻ってきた。
私がいないと夫の食事は肉に刺身と野菜が少ない。ビールの本数も止める人がいないと飲んでいる。そんなことで夜の外出を控えるようになった。
京都に来ると日夜、駈けずりまわっていた43歳からの4年間を思い出してしまう。
私が京都をかけずりまわっていた頃、婦人会に常駐している女子事務員さんが婦人会会館に訪れる人の昼食を作っていた。
よくここで頂いた。私の口にすんなり入っていく韓国料理だった。
作っている人は新渡日の韓国人、在日韓国人と結婚していた。慶尚南道馬山市が故郷、味付けが実家や夫の姑の味付けに似ていた。
私の父親の故郷は馬山からまだ奥に入った晋州市である。昔は市ではなかった。
山の中の田舎だった。山を越えたところなので味付けが似ていたのか。
口に合ってよく頂いた。
その女子事務職員さん。ご主人が亡くなって小学生の子どもを連れて故郷の馬山市に帰国された。あれからもう20年近く経っている。小学生の子どもさんも大きくなって今は大学生かも知れない。日本語を忘れているかもしれない。
当時は私と同じで韓国語があまりできなくて日本語の方が上手だった。
先日、何年ぶりかにこの会館を訪問した。人が生きてきたそして活動してきた歴史が積み重ねられていた。
私の年を考えると当たり前のことだが時代がその昔にストップして何かしら懐かしくも切なくも思っていた。
今年は韓国に行かないで来年を迎えることになりそうだが今年は秋か冬に国内のどこかに夫と美味しいものでも食べにいこうかとも思っている。
年を重ねた私、仕事に燃えていた時は夜も仕事をしたかったがそんな迫力も加齢とともに消えうせている。老いとはこんなことなのだろうかと思っている。
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