することができて----。そんなことしていると時計は11時になっていく。
11時前にパソコンを閉めた。
ご飯がないのでラーメンを炊いて食べた。
台風は来ているが奈良市内は雨がふっていない。
風は吹いている。
11時半頃から横になって新聞を読んでいるが2紙目の新聞、もう後少しで読み終わるのに眠たい。ウトウトと寝てしまった。
起きると2時半、1時間半ばかり寝たようだ。
ぼんやりと15分ほどしていたが起きた。
夕食の支度もしないといけないが昼前に入った風呂、風呂から上がったときに洗濯をしたのものを干した。
パソコンを開けて受信メールの対応していると30分は過ぎていく。
朝、いいことを聞いた。
なるほど---。考えはやはり韓国人気質と思った。
先日、奈良から遠い山村、多くの方のご協力を得て宍粟市一宮倉床まで取材に入った。本当に遠いところだった。
やっと仕事の新聞に記事が載った。よかった。
ジャーナリスト・ネットにも掲載した。
8月「メデイアウオッチング」の担当、最初は違うこと書くつもりだったが書く内容が変わった。仕事の記事が8月15日掲載でなくて次回になった。
もう1つの内容はやはり記事が掲載された後のほうがよいと考えて有機農業をする文相権さんのことを書いた。有機農業と東日本大震災と組み合わせて書いた。奥さんのメールに画面構築のお知らせをすると奥さんから「いい記事はありがとうございます」の言葉を聞いていたが仕事の新聞に掲載されるまで気が気ではない。やはり韓国から来ておられる人は仕事の新聞に掲載されることも自分の活動のバロメーターになるらしい。
そうしたことで私がスタッフの1人として参加する民団新聞(在日本大韓民国民団の機関紙)は多くの同胞そして日本人たちにも在日の活動の目安、在日韓国人の情報収集として親しまれている。
やっと8月31日付けで文相権さんの記事が掲載された。
ほっとした。
そして9月2日の昨日、掲載紙が文相権さんの自宅に届いている。
さっそく今朝の9時ごろ、文相権さんからお礼のお電話を頂いた。掲載したことでほっとしていた。後またお礼の電話でよかったとほっとした。
そして文さんと少し話した。
「私は子ども時代、無口で会話のできなかった子どもだったのです。それが最近、高校の同級生や小学校の同級生にあうと『よくしゃべるようになったな。うるさいほど話すようになった』また『無口のヒラカワがなんで6つも口があるのか』といわれています」と話した。
そしたら文さんは私にいった。
「子ども時代はずっと黙っていたのは頭の中でいろいろ考えていたこと、そして話すようになったときに言葉に出して話している。考えていたことを話しているので言葉がいい加減でなくて真面目に伝えられている」と。
私はまたこんな年になって文さんに教えられた。
勉強になった。
私は嘘も言えない。おべんちゃらもいえない。ありのままに言葉にしているがその人にあった言葉を話している。
これという言葉の話術もないがただ嘘はいわない。真面目に思ったことを話している。できないことはできないとはっきりといっている。
なるほど。言葉に出して話しができないのでノートに心の襞を書いてきた。
それが書くことにつながっている。
文さんは若い。46歳、私の息子より4歳年上になるが-----。
やはり韓国の田舎で地域の人たちと育んだ韓国人の情という気質があった。
人をじっと観察してそして言葉に出していく。
なにか私の祖母や叔母をみるようだった。
祖母や叔母たちは韓国の家庭という文化で育っている。
「女は黙っている。話してはいけない」という韓国文化で育っているがそう簡単に男性たちの前で言葉を出さなかった。しかし私という孫や姪に言葉を出す時は生きる力になる言葉を出してくれていた。
祖母や叔母たちも嘘がいえない。言葉に魂があった。
そんな気質を私が何十分の1でも受け継いだのかもしれない。
文さんの心の温かさ、電話を通して知ってそしてまたこんな年になって学んだ。
近くだったら何度も訪問して有機野菜を頂きたいがあんなに遠いとそれは無理なようだ。遠くで有機農業を見守っていくことにしよう。
車でいける人は1度、文さんを訪ねて有機農業に触れてもらいたい。
文さんの韓国の田舎で育った人の良い人柄に出会うことになります。
韓国も韓国ドラマのように格好いいことばかりではありません。
人は情や心の襞を積みかさねて親子や友人関係を構築しています。9月半ば
素朴で温かい人たちも多くいる。その1人が文相権さんです。
文さんも日本に来て人に言えない苦労もあるかもしれない。
けれど奥さんや家族たちが温かく文さんの有機農業を助けている。
そんな家族の絆も見せてもらった。
生きる力の言葉に触れた文さんの言葉だった。
なるほど----。と、思ってまた子ども時代をふりかえって思考も大切にしていきたいものだ。
11時前にパソコンを閉めた。
ご飯がないのでラーメンを炊いて食べた。
台風は来ているが奈良市内は雨がふっていない。
風は吹いている。
11時半頃から横になって新聞を読んでいるが2紙目の新聞、もう後少しで読み終わるのに眠たい。ウトウトと寝てしまった。
起きると2時半、1時間半ばかり寝たようだ。
ぼんやりと15分ほどしていたが起きた。
夕食の支度もしないといけないが昼前に入った風呂、風呂から上がったときに洗濯をしたのものを干した。
パソコンを開けて受信メールの対応していると30分は過ぎていく。
朝、いいことを聞いた。
なるほど---。考えはやはり韓国人気質と思った。
先日、奈良から遠い山村、多くの方のご協力を得て宍粟市一宮倉床まで取材に入った。本当に遠いところだった。
やっと仕事の新聞に記事が載った。よかった。
ジャーナリスト・ネットにも掲載した。
8月「メデイアウオッチング」の担当、最初は違うこと書くつもりだったが書く内容が変わった。仕事の記事が8月15日掲載でなくて次回になった。
もう1つの内容はやはり記事が掲載された後のほうがよいと考えて有機農業をする文相権さんのことを書いた。有機農業と東日本大震災と組み合わせて書いた。奥さんのメールに画面構築のお知らせをすると奥さんから「いい記事はありがとうございます」の言葉を聞いていたが仕事の新聞に掲載されるまで気が気ではない。やはり韓国から来ておられる人は仕事の新聞に掲載されることも自分の活動のバロメーターになるらしい。
そうしたことで私がスタッフの1人として参加する民団新聞(在日本大韓民国民団の機関紙)は多くの同胞そして日本人たちにも在日の活動の目安、在日韓国人の情報収集として親しまれている。
やっと8月31日付けで文相権さんの記事が掲載された。
ほっとした。
そして9月2日の昨日、掲載紙が文相権さんの自宅に届いている。
さっそく今朝の9時ごろ、文相権さんからお礼のお電話を頂いた。掲載したことでほっとしていた。後またお礼の電話でよかったとほっとした。
そして文さんと少し話した。
「私は子ども時代、無口で会話のできなかった子どもだったのです。それが最近、高校の同級生や小学校の同級生にあうと『よくしゃべるようになったな。うるさいほど話すようになった』また『無口のヒラカワがなんで6つも口があるのか』といわれています」と話した。
そしたら文さんは私にいった。
「子ども時代はずっと黙っていたのは頭の中でいろいろ考えていたこと、そして話すようになったときに言葉に出して話している。考えていたことを話しているので言葉がいい加減でなくて真面目に伝えられている」と。
私はまたこんな年になって文さんに教えられた。
勉強になった。
私は嘘も言えない。おべんちゃらもいえない。ありのままに言葉にしているがその人にあった言葉を話している。
これという言葉の話術もないがただ嘘はいわない。真面目に思ったことを話している。できないことはできないとはっきりといっている。
なるほど。言葉に出して話しができないのでノートに心の襞を書いてきた。
それが書くことにつながっている。
文さんは若い。46歳、私の息子より4歳年上になるが-----。
やはり韓国の田舎で地域の人たちと育んだ韓国人の情という気質があった。
人をじっと観察してそして言葉に出していく。
なにか私の祖母や叔母をみるようだった。
祖母や叔母たちは韓国の家庭という文化で育っている。
「女は黙っている。話してはいけない」という韓国文化で育っているがそう簡単に男性たちの前で言葉を出さなかった。しかし私という孫や姪に言葉を出す時は生きる力になる言葉を出してくれていた。
祖母や叔母たちも嘘がいえない。言葉に魂があった。
そんな気質を私が何十分の1でも受け継いだのかもしれない。
文さんの心の温かさ、電話を通して知ってそしてまたこんな年になって学んだ。
近くだったら何度も訪問して有機野菜を頂きたいがあんなに遠いとそれは無理なようだ。遠くで有機農業を見守っていくことにしよう。
車でいける人は1度、文さんを訪ねて有機農業に触れてもらいたい。
文さんの韓国の田舎で育った人の良い人柄に出会うことになります。
韓国も韓国ドラマのように格好いいことばかりではありません。
人は情や心の襞を積みかさねて親子や友人関係を構築しています。9月半ば
素朴で温かい人たちも多くいる。その1人が文相権さんです。
文さんも日本に来て人に言えない苦労もあるかもしれない。
けれど奥さんや家族たちが温かく文さんの有機農業を助けている。
そんな家族の絆も見せてもらった。
生きる力の言葉に触れた文さんの言葉だった。
なるほど----。と、思ってまた子ども時代をふりかえって思考も大切にしていきたいものだ。
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