今朝、のフエスブックをはりつけておきます。
3月7日(水)晴。太陽は燦々と街中を照らしている。室温は22度。湿度は41%。明日は午後から雨の予報です。
今朝、食べたものはご飯、味噌汁は薄揚げとワカメ、ウインナー2本、1本が長いので1本80カロリー。ほうれん草のお浸し、韓国食材のエゴマ、大根の漬物です。380カロリーほどになる。
昨日はケアマネジャーと一緒に、介護認定の調査にこられた。質問形式だった。真面目に応対される。45分程度だったがベッドに腰掛けたままだったので少し疲れた。
昨日はその間、夫は眼科に行き外出、帰りは近鉄奈良駅構内で握り寿司を買って来た。握り寿司もカロリーが多い。稲荷寿司は食べなかったが3時頃になると小原に何かをいれたい。5個のうち、3個食べた。ここの稲荷寿司を初めて食べたが寿司飯も揚げの煮こみも美味しかった。ここの稲荷寿司ならまた食べたい。今日は午後3時にリハビリの先生がこられる。
昨日、スマートフオンに私のフエスブック見ておられる男性の方からメッセージーが入った。開かないと顔が画面から消えない。開いて見ると映画の案内、それが開いても消えない。とりあえず電話をかけてみよう。電話をした。たぶん初めて電話である。私の周りの人と知り合いで、私のフエスブックをみて下さっている。ありがたい。感謝です。そしてリハビリの生活でもほのぼのとした文書といって下さる。毎日の日記のように書いている。同級生の中には毎日の日記みたいで面白くないと電話で話している。しかし私は仕事も引退したので現場に行くこともなく、また運動という活動も興味がない。そして政治という日本の政治にも韓国・北朝鮮の政治からも距離を置いている。そしないと私の心が疲れるのでそうしている。私は父親の背中を見てきたのか、父親が生きてきた人生をまた追って生きている。
日本の敗戦後、父親は民族活動していた。しかし私が成長するにあたり、民族運動をきっぱりやめて、会社員で定年退職まで働いた。退職後は地域の人たちの付き合いをして民族は親せきだけだった。それを貫きとおした。しかし京都府相楽郡の在日同胞のことや地域との歴史もよく知っていた。民団新聞の記者時代、京都の地域によって、北朝鮮支持者の多い所の現場取材は反対していた。他にも日韓国交正常化で解決した問題の現場も反対した。父親は煙たい存在だったのでそんなに話をしなかったが、ふりかえるともっと話をすればよかったと思っている。父親は若い時から頭脳明晰、私は父親から見ると出来が悪いのでいつも怒られていた。しかし子供のことはあれこれ考えていたようだ。13歳離れた弟、大学に行くと麻雀ばかりしていたという。そんな息子に何を思ったのか、ギターを自分で買ってきて、弟に与えたという。それが現在の音楽活動につながっている。そんなことは知らなかった。先日、弟の嫁さんが話していた。父親がギターを与えたのに、音楽で留守をする弟のことを私に愚痴をいっていた。それで弟から音楽活動したと思っていた。弟は音楽があって救われただろう。本家の長男の重圧、親戚が多いのでその重圧、いろいろ大変である。ここに付随するお弟の嫁さんも大変である。よくやってきたなと感心して感謝している。弟は音楽で息抜きをしてきたのだろう。
さて今日はこのへんで。
3月7日(水)晴。太陽は燦々と街中を照らしている。室温は22度。湿度は41%。明日は午後から雨の予報です。
今朝、食べたものはご飯、味噌汁は薄揚げとワカメ、ウインナー2本、1本が長いので1本80カロリー。ほうれん草のお浸し、韓国食材のエゴマ、大根の漬物です。380カロリーほどになる。
昨日はケアマネジャーと一緒に、介護認定の調査にこられた。質問形式だった。真面目に応対される。45分程度だったがベッドに腰掛けたままだったので少し疲れた。
昨日はその間、夫は眼科に行き外出、帰りは近鉄奈良駅構内で握り寿司を買って来た。握り寿司もカロリーが多い。稲荷寿司は食べなかったが3時頃になると小原に何かをいれたい。5個のうち、3個食べた。ここの稲荷寿司を初めて食べたが寿司飯も揚げの煮こみも美味しかった。ここの稲荷寿司ならまた食べたい。今日は午後3時にリハビリの先生がこられる。
昨日、スマートフオンに私のフエスブック見ておられる男性の方からメッセージーが入った。開かないと顔が画面から消えない。開いて見ると映画の案内、それが開いても消えない。とりあえず電話をかけてみよう。電話をした。たぶん初めて電話である。私の周りの人と知り合いで、私のフエスブックをみて下さっている。ありがたい。感謝です。そしてリハビリの生活でもほのぼのとした文書といって下さる。毎日の日記のように書いている。同級生の中には毎日の日記みたいで面白くないと電話で話している。しかし私は仕事も引退したので現場に行くこともなく、また運動という活動も興味がない。そして政治という日本の政治にも韓国・北朝鮮の政治からも距離を置いている。そしないと私の心が疲れるのでそうしている。私は父親の背中を見てきたのか、父親が生きてきた人生をまた追って生きている。
日本の敗戦後、父親は民族活動していた。しかし私が成長するにあたり、民族運動をきっぱりやめて、会社員で定年退職まで働いた。退職後は地域の人たちの付き合いをして民族は親せきだけだった。それを貫きとおした。しかし京都府相楽郡の在日同胞のことや地域との歴史もよく知っていた。民団新聞の記者時代、京都の地域によって、北朝鮮支持者の多い所の現場取材は反対していた。他にも日韓国交正常化で解決した問題の現場も反対した。父親は煙たい存在だったのでそんなに話をしなかったが、ふりかえるともっと話をすればよかったと思っている。父親は若い時から頭脳明晰、私は父親から見ると出来が悪いのでいつも怒られていた。しかし子供のことはあれこれ考えていたようだ。13歳離れた弟、大学に行くと麻雀ばかりしていたという。そんな息子に何を思ったのか、ギターを自分で買ってきて、弟に与えたという。それが現在の音楽活動につながっている。そんなことは知らなかった。先日、弟の嫁さんが話していた。父親がギターを与えたのに、音楽で留守をする弟のことを私に愚痴をいっていた。それで弟から音楽活動したと思っていた。弟は音楽があって救われただろう。本家の長男の重圧、親戚が多いのでその重圧、いろいろ大変である。ここに付随するお弟の嫁さんも大変である。よくやってきたなと感心して感謝している。弟は音楽で息抜きをしてきたのだろう。
さて今日はこのへんで。
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