
整理しないと仕事の写真のフオルダがいっぱいになってきた。
石山寺、民族学級、王仁博士関係など。とりあえず新しいフォルダに移動してそれからまた不要の写真を削除していた。新しいフォルダの写真を整理していると子どもたちの表情が豊かで純粋である。
私は京都府相楽郡木津町で育ったのでハングルの勉強は民族団体が主催する場所に行って習わないといけなかった。
父親の考えで韓国系も北朝鮮系の民族団体に所属をしなかった。子どもたちにも決して行かせなかった。
娘のハングル教室の誘いがあると父親は誘いにきた人に言った。
「お前らウリマル(我が国の言葉)なんて勉強していない。爆弾を作る勉強している。そんなところに娘はやれるか」と言って玄関の戸を閉めたという。
私はもう嫁いで実家にいなかった。まだ妹が実家にいたころの1960年代後半から70年代初めの話である。妹もこんな話はずっと黙っていた。姉の私にも黙っていた。
しかし拉致被害者の問題が浮上し始めた時に私に妹は話してくれた。
弟もずっと父親が話していたことを私に黙っていた。
大学受験のときに国公立の受験で1浪人させてほしいと言っても頑固に反対して現役で私学の大学に入学させた。
父親の恐怖は1浪すると民族団体の誘いに息子がその気になることが怖かった。なにがなんでも現役だった。
弟が大学合格の通知を受け取った時に父親はたいそう喜んでいた。
私は心の中で「私学は学費がかかるのに大変、苦労するのは母親なのに」と思っていた。そして最近、父親の胸中を弟が明かしてくれてやっとその意味がわかった。
双方の民族団体に所属しないでただひたすら日本の会社で働いて生涯を終えた。それなのに子どもたちには「ハングルは使わなくても覚えておいたほうがいい」と言って食卓の上で「ア・ヤ・オ・ヨ----」と文字の組み立てを教えてくれた。
妹は黙ってきいているのに私は「日本に住んでいるのになんでハングル、覚えとあかんの。日本語で十分や」と言ったら父親は私の顔をじっと見て「ほんまにそう思うか」と聞くので「うん」と言ったら父親は黙ってしまった。
心の中で自責の念もあって黙っていたのだろうか。日本社会に対する思いがあったのだろうか。
このときハングルに触れていれば韓国語がうまくなっていたかもしれない。
が父親はあえて強要しなかった。
文字に興味を持って民族団体に関わるようになるほうがもっと恐怖だったのたろう。
子どもに限らず自分の兄弟さえにも行くことを反対していた。だから叔父たちは黙って韓国に行ったりしていた。
いろんなことがあった。ここに記述できないこともあった。
写真を見ていると子どもたちの表情、純粋にハングルを習う姿が私はうらやましい。子どもたちは先人の努力でハングルを日本の公立学校に通いながら習い、ネガティブな韓国語にも触れる機会にも恵まれている。民族学校の子どもたちの華麗な舞そして力強い楽器演奏に目をキラキラして見ている。こんな機会にふれることができる子どもたちに目頭が熱くなる。
在日コリアンの子どもたち、おそらく4世そして5世だろう。
その子どもたちの生き生きとした表情、自分のことを正しく学ぶことが子どもたちに自信と誇りを作っている。
私はド田舎で育ったのでこうして民族学習にふれることがなかった。唯一父親だったのにその父親からも逃げていた。
40歳ごろから「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」葛藤にぶつかりようやく42歳になって韓国語を習った。
ハングルの間から文化や生活が見えてきた。父親はこうしたことを知っていたので「使わなくても覚えておいたほうがいい」という意味がやっとわかった。
言葉を習いだして半年ぐらい隠していたが夜間中学に通う在日1世のオモニ(お母さん)から私の親戚に伝わり父親の耳に入った。もう隠せなかった。
そして父親に韓国語の発音を教わると丁寧に教えてくれた。しかし今も「ん」の発音は日本語の「ん」しかできない。韓国語は2つあるが区別してできない。日本語を母語とした在日韓国人2世の韓国語である。
民族学校や民族学級で学ぶ子どもたちの歌声に思わず涙がでてくる。真っ白い心で韓国のことを教わっている。この子たちがきっと韓国と日本の架け橋をしてくれる。そう思うとまた涙がこぼれてくる。
民族学校の教師や民族学級で教える民族講師も同じ気持だろう。だから子どもたちは大人の保護者よりしっかりとハングルを覚えていく。そんな子どもたちの表情を紹介したくて朝からネットにセットアップする原稿作った。ブログを書くともう11時、その間メールの送受信もしていたが---電話かける仕事もあるのに--。
写真を整理していて石山寺の写真もなつかしくよく行ったなと感慨深くなった。
写真はこの坂道をいくつも登っていくと紫式部の銅像が建立されているところがある。こんな階段が約200段もある
石山寺、民族学級、王仁博士関係など。とりあえず新しいフォルダに移動してそれからまた不要の写真を削除していた。新しいフォルダの写真を整理していると子どもたちの表情が豊かで純粋である。
私は京都府相楽郡木津町で育ったのでハングルの勉強は民族団体が主催する場所に行って習わないといけなかった。
父親の考えで韓国系も北朝鮮系の民族団体に所属をしなかった。子どもたちにも決して行かせなかった。
娘のハングル教室の誘いがあると父親は誘いにきた人に言った。
「お前らウリマル(我が国の言葉)なんて勉強していない。爆弾を作る勉強している。そんなところに娘はやれるか」と言って玄関の戸を閉めたという。
私はもう嫁いで実家にいなかった。まだ妹が実家にいたころの1960年代後半から70年代初めの話である。妹もこんな話はずっと黙っていた。姉の私にも黙っていた。
しかし拉致被害者の問題が浮上し始めた時に私に妹は話してくれた。
弟もずっと父親が話していたことを私に黙っていた。
大学受験のときに国公立の受験で1浪人させてほしいと言っても頑固に反対して現役で私学の大学に入学させた。
父親の恐怖は1浪すると民族団体の誘いに息子がその気になることが怖かった。なにがなんでも現役だった。
弟が大学合格の通知を受け取った時に父親はたいそう喜んでいた。
私は心の中で「私学は学費がかかるのに大変、苦労するのは母親なのに」と思っていた。そして最近、父親の胸中を弟が明かしてくれてやっとその意味がわかった。
双方の民族団体に所属しないでただひたすら日本の会社で働いて生涯を終えた。それなのに子どもたちには「ハングルは使わなくても覚えておいたほうがいい」と言って食卓の上で「ア・ヤ・オ・ヨ----」と文字の組み立てを教えてくれた。
妹は黙ってきいているのに私は「日本に住んでいるのになんでハングル、覚えとあかんの。日本語で十分や」と言ったら父親は私の顔をじっと見て「ほんまにそう思うか」と聞くので「うん」と言ったら父親は黙ってしまった。
心の中で自責の念もあって黙っていたのだろうか。日本社会に対する思いがあったのだろうか。
このときハングルに触れていれば韓国語がうまくなっていたかもしれない。
が父親はあえて強要しなかった。
文字に興味を持って民族団体に関わるようになるほうがもっと恐怖だったのたろう。
子どもに限らず自分の兄弟さえにも行くことを反対していた。だから叔父たちは黙って韓国に行ったりしていた。
いろんなことがあった。ここに記述できないこともあった。
写真を見ていると子どもたちの表情、純粋にハングルを習う姿が私はうらやましい。子どもたちは先人の努力でハングルを日本の公立学校に通いながら習い、ネガティブな韓国語にも触れる機会にも恵まれている。民族学校の子どもたちの華麗な舞そして力強い楽器演奏に目をキラキラして見ている。こんな機会にふれることができる子どもたちに目頭が熱くなる。
在日コリアンの子どもたち、おそらく4世そして5世だろう。
その子どもたちの生き生きとした表情、自分のことを正しく学ぶことが子どもたちに自信と誇りを作っている。
私はド田舎で育ったのでこうして民族学習にふれることがなかった。唯一父親だったのにその父親からも逃げていた。
40歳ごろから「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」葛藤にぶつかりようやく42歳になって韓国語を習った。
ハングルの間から文化や生活が見えてきた。父親はこうしたことを知っていたので「使わなくても覚えておいたほうがいい」という意味がやっとわかった。
言葉を習いだして半年ぐらい隠していたが夜間中学に通う在日1世のオモニ(お母さん)から私の親戚に伝わり父親の耳に入った。もう隠せなかった。
そして父親に韓国語の発音を教わると丁寧に教えてくれた。しかし今も「ん」の発音は日本語の「ん」しかできない。韓国語は2つあるが区別してできない。日本語を母語とした在日韓国人2世の韓国語である。
民族学校や民族学級で学ぶ子どもたちの歌声に思わず涙がでてくる。真っ白い心で韓国のことを教わっている。この子たちがきっと韓国と日本の架け橋をしてくれる。そう思うとまた涙がこぼれてくる。
民族学校の教師や民族学級で教える民族講師も同じ気持だろう。だから子どもたちは大人の保護者よりしっかりとハングルを覚えていく。そんな子どもたちの表情を紹介したくて朝からネットにセットアップする原稿作った。ブログを書くともう11時、その間メールの送受信もしていたが---電話かける仕事もあるのに--。
写真を整理していて石山寺の写真もなつかしくよく行ったなと感慨深くなった。
写真はこの坂道をいくつも登っていくと紫式部の銅像が建立されているところがある。こんな階段が約200段もある
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