朝から忙しくてパソコンを開けないで外出の支度をした。
阪急京都線の西院まで行かないといけない。
11時に入らないといけない。
ここも昔はよく通ったのにすっかり付近の地図も忘れてしまった。
とりあえず行きしなは電車で行くことにした。
朝、7時40分に家を出る。
中循環バスは42分、これに乗りたい。
しかし焦ってはひっくり返ってしまう。
心の中で落ち着いて、落ち着いてと行っている。
今日はバスが1・2分遅れてほしいと思っている。
バス停に行った。
間に合った。中循環バスが2つ向こうのバス停にいた。よかった。
近鉄奈良駅に出ると7時47分、近鉄奈良駅構内に行って京都行き9時30分の特急券を買いに行く。そしていきつけの喫茶店に行くと7時50分、とりあえず8時までに着いた。
新聞を2紙読む。途中、トイレに行く。
慌てて出てきたので-----。
とりあえずここで「大」が出てよかった。
9時15分に喫茶店を出る。ホームに下りると特急が止まっていた。
特急電車の中は温かい。
途中、丹波橋で降りて各駅停車京都行きにのりかえて竹田駅に出て地下鉄京都国際会館行きに乗り換えた。
そして京都四条駅に出て阪急電車大阪行きに乗り換える。
烏丸駅から2つ目の西院駅で降りた。
昔と違ってエレベーターが設置していると思ったら昔のまま、階段、階段、また階段を上って地上に出ないといけない。
なんと不自由なこと。西院は多くの人が乗降しているのにこれは阪急電車、一般庶民のかゆい所に手が届いていない。
西院駅にいた人にインターネットで検索した地図を見せて目的の場所を聞く。徒歩5分、タクシーに乗ったら怒られるところ、在日韓国人が経営している西京病院を目指して歩く。そしてまたこのところで歩いていた人に目的の場所を聞くとすぐそばだった。
10時50分に着いた。
11時から2時50分までこの現場にいた。
ここを出たのが2時50分、大通りまで歩いて出た。
2時55分、タクシーに乗った。
西院駅の階段が多くて下りは恐い。
京都駅に着くまでタクシー運転手はよく話す。
伊丹空港で車椅子の人を降ろして横断歩道を渡ってまたすぐに戻ってきたのに駐車違反の切符が切られていたこと。
なるほど-----。
話していると京都駅に着いたのが3時10分、15分の橿原神宮行きが止まっているが3時35分に奈良行き特急に乗ることにした。
そのまま奈良まで直行なので安心して乗れる。
橿原神宮行きは西大寺で降りないといけないので少し待った。
待っている間に空腹感が出てきた。
コーヒー一杯、昼に頂いただけで何も食べていない。
それで遅い昼食で近鉄京都駅構内の店で「おこわ弁当」を買った。
特急電車の車内、様々に飲食している。
特急電車なので---。まだ許される。
丹波橋つく頃には食べていて腹持ちがよくなった。
奈良に着くと4時10分、文房具屋に寄って今日の現場の資料をコピーした。
また明後日、宅急便で送らないといけない。
スーパーで買い物して家に帰ると5時、風呂に入りたいがそんな時間がない。
とりあえず顔を洗って足を拭いて服を着替えて夕食の支度、支度の最中に夫が帰ってきた。
とりあえず間に合った。6時から夕食してパソコンの前に座ったのが7時半です。
西院駅に久しぶりに降りた。
何年ぶりだろうか。
1988年秋からから1992年の終わりまでずっと京都を中心にして取材活動していた。西院駅近くに京都の婦人会(民団)があったのでよく婦人会の会館を訪問した。懐かしいが果たしてどの道をいくのかすっかり忘れてしまった。
西院駅近くに韓国の知人が京都に赴任してこの近くに住んでいた。
京都市立高校に通学していた娘さんとよく電車の中で会った。
優秀な娘さんはいつもドア付近で英語の本を読んでいた。
日本の生徒を追い越して優秀に成績で日本の高校を卒業して韓国に帰国された。
そのまま韓国に住んでおられたらソウル大学にも行けただろう。
しかし日本で学業した5年間というのはソウルで学ぶ学業の差が大きい。
1浪することになった。
それでもソウル大学は難しくて韓国で名門の女子大学に合格された。
4年間学んだ。しばらくして結婚された。結婚された相手は小学校の同級生だった。親は付き合っていることに気がつかなかった。お見合いをさせようと思ったら娘さんが「好きな人がいる」と、いうことで親は驚いた。
日本に父親が赴任して家族が赴任してこられたが同級生との手紙のやりとりが続いていたという。これもいい話である。心温まる話である。
娘さんは美人で聡明だったのでニュースキォスターになられると思ったが親はさっさと結婚させてしまった。
韓国の70歳前後の大人は25歳までに結婚させないといけないと思っている。
娘さんは結婚して子どもができたが家族でアメリカに留学された。
最近、私は韓国に行っていないので家族の近況を聞いていないので分からない。
烏丸から2駅向こうの西院駅なのに、ドアのところで英語の本を持って勉強していた娘さんの姿を思い出した。
美人だったので電車の中でもすぐに分かった。懐かしく思い出していた。
西京病院にも取材で2度ほど訪問しているのに当時、取材したことはすっかりと忘れてしまった。当時は日刊紙だったので猛烈に働いた。
そんな日々を過ごしたので今日があると思っているが-----。
失敗もたくさんした。
辛いこともたくさんあった。人の見ないところで何度も涙をこぼした。
何度も仕事を元の古巣に戻ろうと思ったことか----。
しかし2の足を踏んだ。
「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」
この気持ちが辛抱させた。
あの当時のことを西院駅に立つと走馬灯に浮かんできた。
あれから何年も何年も生きてきた。生かされたことに思わず心の中で
「ありがたい」とつぶやいていた。
皆に助けられてここまで来たのだと思うと辛いことも悲しかったことも吹っ飛びそうだった。
あのときから年を重ねて24年も経ってしまった。
今はボチボチマイペースに体調を考えて動いています。
ここまで来られたことにまた「感謝」です。
今日は夕方のブログになった。
また明日です。
阪急京都線の西院まで行かないといけない。
11時に入らないといけない。
ここも昔はよく通ったのにすっかり付近の地図も忘れてしまった。
とりあえず行きしなは電車で行くことにした。
朝、7時40分に家を出る。
中循環バスは42分、これに乗りたい。
しかし焦ってはひっくり返ってしまう。
心の中で落ち着いて、落ち着いてと行っている。
今日はバスが1・2分遅れてほしいと思っている。
バス停に行った。
間に合った。中循環バスが2つ向こうのバス停にいた。よかった。
近鉄奈良駅に出ると7時47分、近鉄奈良駅構内に行って京都行き9時30分の特急券を買いに行く。そしていきつけの喫茶店に行くと7時50分、とりあえず8時までに着いた。
新聞を2紙読む。途中、トイレに行く。
慌てて出てきたので-----。
とりあえずここで「大」が出てよかった。
9時15分に喫茶店を出る。ホームに下りると特急が止まっていた。
特急電車の中は温かい。
途中、丹波橋で降りて各駅停車京都行きにのりかえて竹田駅に出て地下鉄京都国際会館行きに乗り換えた。
そして京都四条駅に出て阪急電車大阪行きに乗り換える。
烏丸駅から2つ目の西院駅で降りた。
昔と違ってエレベーターが設置していると思ったら昔のまま、階段、階段、また階段を上って地上に出ないといけない。
なんと不自由なこと。西院は多くの人が乗降しているのにこれは阪急電車、一般庶民のかゆい所に手が届いていない。
西院駅にいた人にインターネットで検索した地図を見せて目的の場所を聞く。徒歩5分、タクシーに乗ったら怒られるところ、在日韓国人が経営している西京病院を目指して歩く。そしてまたこのところで歩いていた人に目的の場所を聞くとすぐそばだった。
10時50分に着いた。
11時から2時50分までこの現場にいた。
ここを出たのが2時50分、大通りまで歩いて出た。
2時55分、タクシーに乗った。
西院駅の階段が多くて下りは恐い。
京都駅に着くまでタクシー運転手はよく話す。
伊丹空港で車椅子の人を降ろして横断歩道を渡ってまたすぐに戻ってきたのに駐車違反の切符が切られていたこと。
なるほど-----。
話していると京都駅に着いたのが3時10分、15分の橿原神宮行きが止まっているが3時35分に奈良行き特急に乗ることにした。
そのまま奈良まで直行なので安心して乗れる。
橿原神宮行きは西大寺で降りないといけないので少し待った。
待っている間に空腹感が出てきた。
コーヒー一杯、昼に頂いただけで何も食べていない。
それで遅い昼食で近鉄京都駅構内の店で「おこわ弁当」を買った。
特急電車の車内、様々に飲食している。
特急電車なので---。まだ許される。
丹波橋つく頃には食べていて腹持ちがよくなった。
奈良に着くと4時10分、文房具屋に寄って今日の現場の資料をコピーした。
また明後日、宅急便で送らないといけない。
スーパーで買い物して家に帰ると5時、風呂に入りたいがそんな時間がない。
とりあえず顔を洗って足を拭いて服を着替えて夕食の支度、支度の最中に夫が帰ってきた。
とりあえず間に合った。6時から夕食してパソコンの前に座ったのが7時半です。
西院駅に久しぶりに降りた。
何年ぶりだろうか。
1988年秋からから1992年の終わりまでずっと京都を中心にして取材活動していた。西院駅近くに京都の婦人会(民団)があったのでよく婦人会の会館を訪問した。懐かしいが果たしてどの道をいくのかすっかり忘れてしまった。
西院駅近くに韓国の知人が京都に赴任してこの近くに住んでいた。
京都市立高校に通学していた娘さんとよく電車の中で会った。
優秀な娘さんはいつもドア付近で英語の本を読んでいた。
日本の生徒を追い越して優秀に成績で日本の高校を卒業して韓国に帰国された。
そのまま韓国に住んでおられたらソウル大学にも行けただろう。
しかし日本で学業した5年間というのはソウルで学ぶ学業の差が大きい。
1浪することになった。
それでもソウル大学は難しくて韓国で名門の女子大学に合格された。
4年間学んだ。しばらくして結婚された。結婚された相手は小学校の同級生だった。親は付き合っていることに気がつかなかった。お見合いをさせようと思ったら娘さんが「好きな人がいる」と、いうことで親は驚いた。
日本に父親が赴任して家族が赴任してこられたが同級生との手紙のやりとりが続いていたという。これもいい話である。心温まる話である。
娘さんは美人で聡明だったのでニュースキォスターになられると思ったが親はさっさと結婚させてしまった。
韓国の70歳前後の大人は25歳までに結婚させないといけないと思っている。
娘さんは結婚して子どもができたが家族でアメリカに留学された。
最近、私は韓国に行っていないので家族の近況を聞いていないので分からない。
烏丸から2駅向こうの西院駅なのに、ドアのところで英語の本を持って勉強していた娘さんの姿を思い出した。
美人だったので電車の中でもすぐに分かった。懐かしく思い出していた。
西京病院にも取材で2度ほど訪問しているのに当時、取材したことはすっかりと忘れてしまった。当時は日刊紙だったので猛烈に働いた。
そんな日々を過ごしたので今日があると思っているが-----。
失敗もたくさんした。
辛いこともたくさんあった。人の見ないところで何度も涙をこぼした。
何度も仕事を元の古巣に戻ろうと思ったことか----。
しかし2の足を踏んだ。
「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」
この気持ちが辛抱させた。
あの当時のことを西院駅に立つと走馬灯に浮かんできた。
あれから何年も何年も生きてきた。生かされたことに思わず心の中で
「ありがたい」とつぶやいていた。
皆に助けられてここまで来たのだと思うと辛いことも悲しかったことも吹っ飛びそうだった。
あのときから年を重ねて24年も経ってしまった。
今はボチボチマイペースに体調を考えて動いています。
ここまで来られたことにまた「感謝」です。
今日は夕方のブログになった。
また明日です。
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