鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

今日は暖かいと天気予報は言っている。

2009-03-16 17:23:04 | 直言!
仕事の問合せが入る。
こんなことをしていると午後の1時まわってしまった。新聞を読んでウトウトするが1時間ほどで目が覚める。
家の掃除も気になるが仕事の雑用が多い。
もう時計は4時前、夕食の支度をしないといけない。
今日は餃子を作ろうかなと思う。もう何年も餃子を作っていなかった。
毎日忙しいのでつい手間のかかる餃子を作ることから離れていた。
また忙しい時は市販の餃子をよく買って来て家で焼いていたが食品問題がでてから冷凍食品も作ってある食品はほとんど買わなくなった。
たいてい、なるべく家で手作りするが忙しい時はそんなことを言っておられなかったが食品問題が浮上してからは買わなくなった。
それで今日は餃子を作らないといけないので早く夕食の支度をしないといけない。

昼のニュースでは奈良の空がでていて黄砂が空気中にたくさんは言っているという。中国大陸からここまで黄砂が飛んでくるのだろうか。
韓国の黄砂は分かる。大陸続きで飛んでくるだろう。
日本は日本海を越えて飛んできていることになる。
そういえば空は黄色い。晴れているのに青空が見えない。
やはり黄砂なのだろう。
地球温暖化に黄砂に花粉と人間の体によくないことばかりである。
どうしたものかと何も対処できない私が考えている。
昨日の6時からの「バンキシャ」のニュースで放送されていた。
金賢姫さんと飯島親子の対面。3人だけで対面していないと思っていた。
やはり韓国政府の関係者が大勢おられた。
記録する人もおられたので何を話されたのか。
金賢姫さんはこれまで隠蔽生活をしているとあってよくお話しをされたとニユースでは伝えていた。
私から見ると金賢姫さんも国家権力に利用された犠牲者だと思う。
人それぞれ取り方考えたが違う。見解も違う。
「革命」だから工作員もすれば拉致もするとある人が「革命」の理論を話した人がいたが私はそんな難しいことは理解できない。
離れ離れになった日本の親子、家族の苦悩を考えるとやはりこんなことはあってはならないと考えている。

1960年代から1970年代、在日同胞社会は北朝鮮を支持する人たちが多かった。
当時の在日コリアンの家庭は貧しく公立高校も入ることができなければ私学の高校もいけない。そうした貧困家庭の有様に朝鮮高校に奨学金の名のもとに親が政治活動していなくてもその学校の受け入れをいいことに政治社会に入っていた。
私の従姉妹も公立高校を落ちて朝鮮高校に入り卒業後は大阪で小学校教師をしていた。結婚しても長い間、政治活動をしていたが子どもが大きくなって海外に留学することになった。1度は海外に留学できるが2度目からは韓国籍でないとパスポートが作ることができなくて子どもの教育に支障をきたすことになった。
ずっとこのこの従姉妹とは疎遠だった。親から挨拶以外余計なことを話さないでと言われていたので疎遠だった。親戚の冠婚葬祭であっても挨拶をするだけで話をすることがなかった。
しかし子どもの教育にはどうすることも出来なかった。
最初は韓国に行き来する叔父に頼んだがうまくいかない。
疎遠だった私のところに遠方に住んでいる従姉妹から電話が入った。
パスポートを作るのには韓国籍にしないといけない。
最寄りの民団関係でもどうすることがたできなかったという。
私の父親がなくなった後だったので従姉妹の話を聞いて韓国の公館関係者に連絡をした。関係者は私に「そんなに簡単にできない」と話していたが出来たのかどうかわからない。それから長いこと会っていないので分からない。
他の従姉妹たちも子どもの学校教育のために韓国籍に切り替えていくがなかなか韓国籍に切り替えられなくて苦労している様子を見てきた。
もう長いこと従姉妹にもあっていないのでその後のことは分からない。
他にもいろいろな事例を見てきた。
今また不景気で子どもの教育を受けられない家庭もでてきているがもう北朝鮮支持の活動団体も北朝鮮が瀕死の状態で支援金が送ってくることもないので子どもたちの奨学金という言葉が使えないだろう。

ただ朝鮮学校を卒業した子どもたちは言葉ができる。語学教育は徹底していた。これは成功したことにはいるだろう。いいきりを見つけて韓国籍に切り替えて韓国関係機関で仕事をしておられる人もいる。
1950年代、1960年代に育った在日コリアン、貧困だったが親はどんな仕事をしても子育てをして子どもに教育をつけてくれた。

先日、大阪の韓国市場に取材に行った。
同じ高校の出身、精華町から木津高校に通っていた。
私より3歳下、私の世代が旧教科書の最後の世代でこの後輩が入学した年から教科書が変った。妹と同級生だがクラスが違っていた。妹が新しい教科書を出して「倫理」「地学」という科目ができたと私に話していた。
私は卒業してOLになった年だった。
この頃はもうクラスのほとんどが高校進学していたという。
私の時代はまだクラスで半分ほどだった。
今考える裕福でなかったのによく学校に行かせてくれたと思っている。

先日の釜山で対面した金賢姫さんと飯島親子、世論はいろいろと意見があるようだが私はまた1950年代、1960年代の在日コリアンたちが生きた当時の様子を思い出していた。
日本全国に潜んでいた北朝鮮の工作員そして大多数の関係者がいたということに身の毛がよだつ。
韓国の太陽政策はいったいなんだったろうか。焼け石に水という無駄なものが多かったように思う。けっして一般の手元に何も渡っていない。それを思うとやっぱり無駄だったと思う。権力者の利権だったのだろうか。一般の素人にはそうとしか見えない。
私たちに見えるのは現実に拉致された被害者の家族だけが見えてくる。
韓国も多くの人が拉致されている。
救出するのが先決問題である。皆その子たちの親は老いてきている。
南北分断は多くの数知れない犠牲を払ってきた。
「統一」ということは北朝鮮の独裁国家の体制が変らない限り38度線の軍事境界線は越えることはできない。
1950年代、60年代、70年代、「トンイル ハジャ(統一をしよう)」というかけ声が多く掲げた北朝鮮を支持する活動者、これは絵に書いた餅だったと今さらにながらに思う。
夫はいつも言う。「こんな状態では統一はしない」と。
夫の幼友達が北朝鮮に帰国した。
「今ごろどうしているのだろうか。もう死んでいるだろう」ともらす言葉は南北分断に翻弄された日本社会に対して少し恨みごとを言って黙ってしまう。
そしてポツリという。
「大きい兄さんが私の家は韓国が故郷なので北に帰る気がありませんときっぱり帰国を断った。これが正解だった」と言っては京都市南区上鳥羽から大勢の同胞が帰国していった当時を思い出している。
夫の兄や親たちはどこかで帰国運動の胡散臭さを嗅ぎ取っていたのだろうか。
どこから情報を入れていたのだろうか。
明暗を分けた帰国運動、どこに責任を持っていけばよいのだろうか。



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