春がきたのなら嬉しい。
寒い冬が長かったので気温の上がる春が待遠しかった。
昨日は久しぶりに小・中・高校の同級生からメールが入った。
彼女とは小学校1・2年は同じクラスだったことは記憶している。
その後はどうだったのか---。たぶん同じクラスになったのは中学1年の時だったのか。2年の時だったのか。彼女は勉強がよくできたので高校は普通課程に進んだ。高校は教室が違っても学校に入る校門も出るときも同じ、中庭ではよくみんなと顔を合わしていた。けれど彼女のことはずっと私の記憶にあった。
大人になってもずっとあった。
遊び方も友達に声をかけることも知らない私はずっと小学校時代は1人で過ごしている子どもだった。
小学校2年だったのかな。
いつも教室で1人ぼっちで座っている私に彼女は「ヒラカワさん。一緒に遊ぼ」と声をかけてくれたのに声をかけてもらっても返答もできない内気な子どもだった。黙っている私に彼女たちは皆と一緒に運動場に駆け出していった。
その記憶を鮮明に覚えている。
他の子どもたちはよく話していたのに私はなぜか話せなかった。
会話のできない子どもだった。
今、考えると大人が子どもに語りかけない家庭だったからとおもっている。
大人同士の会話で食卓にいた。
父と母は話していてもいつも夫婦喧嘩を聞きながらの食事だった。
そんな中で会話はできなかった。
母親は在日1世の人生と同じで学校にいっていない。
母親は無学で子どもの勉強についてはまったく無知だった。
肝心なところは父親が見ていた。
鉛筆が短くなってもそれを母親にいえない子どもだった。
筆箱を点検して短い鉛筆に父親は母親に「こんな短い鉛筆では字がかけへん。鉛筆をかわんとあかん」といったら、母親は鉛筆でも何本かってよいのかわからなくて1ダース買ってきたことがあった。
6歳で山城町上狛から木津町に引越しをしてきた。
あの時縁側で紙にクレパスで絵を書いていた。
あの絵の道具は父親が買ってきたものだと今頃、気がついた。
小学校の時、「ヒラカワさん遊ぼ」といってくれた彼女のことはずっと心の中に残っていた。大人になって会うことはなかったが奈良市内の東向き通り商店街を歩いていると彼女が向こうから歩いてくるのが見えた。
もう雑誌記者の仕事をしていたので誰にでも声をかけることはできた。
彼女の顔ははっきりと覚えていたので私は「こんにちは」と声をかけた。
彼女は「あら」といってとても喜んで挨拶をしてくれた。
それも私は日常の挨拶の形ばかりと思っていたが私が覚えていたことをとても喜んでいたことを後日、聞いて私はまた心の中で喜んでいた。
60歳を越えてから小学校の同窓会などで顔を出すようになった。
そして小学校の何人かで旅行にいったり食べにいったりする仲間にしてくれたのは彼女の気配りがあったと今は思っている。
彼女はお人形さんみたいなかわいらしい顔をしていた。
家族団らんの中で大切に育てられたことは子ども心にそう感じていた。
大人になっていろいろ話してみるとやはりそうだった。
親は大変、苦労しているが彼女を大切に大切にして育てられたらしい。
そんなことを知っている彼女は関東に住んでいる兄や姉のところに訪問してはお世話をしている。
このへんの優しさ私は持っていないので彼女を尊敬している。
私はこう見えても長女、中学2年で弟ができてこの後、私は高校卒業して就職するまで家族のために食事を作り家のことをしていた。
実家にいた記憶は厳しい父親と働いて働く母親と虚弱体質の妹と溺愛されていた弟、そして父親の兄弟が多い家で親戚づきあいをする母親を見て祖母を見てきた。母親は長男の嫁で苦労したので私はけっして長男の嫁に行かせなかった。
何番目かの子どもの嫁にと探してなんとか父親が「いい」という人を探した。
核家族が出発だったが私の住んでいる家から歩いて数分のところに夫の兄がいて妹がいた。よく姑がきていた。姑・小姑に苦労した。私は心の病になって苦労した。それで子どもは1人になった。
病が治りかけの頃に乞われて雑誌記者になった。
それから心の病はストーンと落ちるように治癒した。
今も私の病気を治すのに苦労した母親や夫に感謝している。
あの時代に苦労したのが住んでいた佐紀町だった。
佐紀町といえばいろんなことを思い出す。
バイクに乗って水上池の周りを走っていると5月あたりになると水上池には蓮の花が咲き出す。あの大きい池に咲く蓮の花は見事だった。大きい蓮の花だった。平城宮跡の桜満開に何度も何度も心が洗われた。
大自然の大きさに自分1人の人間のちっぽけさを何度も思った。
自然が季節をめぐらして生きているのになぜ小さなことで悩んでいるのかと思ったものだった。15年間住んだ佐紀町にはいろいろな思い出が詰まっている。
そんなことを思い出せてくれた同級生のメールだった。
1度、ゆっくり話したいのに私は時間があって時間が取れない。
約束してもはたして----と、思うと約束することを鈍ってしまう。
女友達、彼女はJR奈良駅の近くで---時間が空くと3時間程度会っている。
ほとんど彼女の周りにいる人たちの愚痴である。
ほとんど私の知らない人の愚痴なので彼女も私には安心して愚痴をいっている。
聞いた話はいっさい外に出さないので愚痴がたまると私に空いている日程をメールで聞いてくる。それに合わして彼女と私の行きつけの喫茶店で会っている。
私がほとんど会うのは仕事関係かライフワーク関係です。
子どもの頃の癖がとれなくて1人で過ごす時間が好きでついつい1人で過ごしている。いきつけの喫茶店で1人、ゆっくり新聞を読んで本を読んでいる時が至福の時間です。
「本」を読めといつもいっていた父親の言葉には感謝している。
「女は黙ってろ」とはよく言ったのに「女は新聞や本を読むな」とはいっさいいわなかった。
小学5年あたりになるともう新聞が読めると思って会社から帰りに買う新聞を列車の中で読んで持って帰ってきては食卓のそれも私が座る横にいつも置いていた。そして水害の話をしながら新聞に書いてあるといっていた。
私は自然と新聞を手にとって読むようになった。
最初に新聞を読み始めた私の原点です。
「本も読め」ともよくいっていた。
「女は本を読むな」ともいっさいいわなかった。
結婚してきて本を読む、新聞を読む私はさんざん嫌味を言われて嫌われた。
本は買わないで図書館に行って借りてきた本を読んでいたのに嫌味をいわれた。
こんなことも重なって心の病になったが-----。
けれど老いになって父親がしてくれたことに感謝している。
人間として生きる1番大切なことを教えてくれたと思っている。
小学校のとき「ヒラカワさん遊ぼ」といった彼女のこともずっと忘れないだろう。感謝している。弟に声をかけてくれた同級生にも感謝している。弟も私が忙しいことはよくしっているのに、もういいかげん仕事をやめてゆっくりしたらという配慮に感謝している。同級生に「ねえちゃんは暇や。飯炊きしてるだけや」といってくれたことに感謝している。
今日はライフワークのために奈良県、近鉄沿線の田原本に行きます。
9時になると身支度です。
寒い冬が長かったので気温の上がる春が待遠しかった。
昨日は久しぶりに小・中・高校の同級生からメールが入った。
彼女とは小学校1・2年は同じクラスだったことは記憶している。
その後はどうだったのか---。たぶん同じクラスになったのは中学1年の時だったのか。2年の時だったのか。彼女は勉強がよくできたので高校は普通課程に進んだ。高校は教室が違っても学校に入る校門も出るときも同じ、中庭ではよくみんなと顔を合わしていた。けれど彼女のことはずっと私の記憶にあった。
大人になってもずっとあった。
遊び方も友達に声をかけることも知らない私はずっと小学校時代は1人で過ごしている子どもだった。
小学校2年だったのかな。
いつも教室で1人ぼっちで座っている私に彼女は「ヒラカワさん。一緒に遊ぼ」と声をかけてくれたのに声をかけてもらっても返答もできない内気な子どもだった。黙っている私に彼女たちは皆と一緒に運動場に駆け出していった。
その記憶を鮮明に覚えている。
他の子どもたちはよく話していたのに私はなぜか話せなかった。
会話のできない子どもだった。
今、考えると大人が子どもに語りかけない家庭だったからとおもっている。
大人同士の会話で食卓にいた。
父と母は話していてもいつも夫婦喧嘩を聞きながらの食事だった。
そんな中で会話はできなかった。
母親は在日1世の人生と同じで学校にいっていない。
母親は無学で子どもの勉強についてはまったく無知だった。
肝心なところは父親が見ていた。
鉛筆が短くなってもそれを母親にいえない子どもだった。
筆箱を点検して短い鉛筆に父親は母親に「こんな短い鉛筆では字がかけへん。鉛筆をかわんとあかん」といったら、母親は鉛筆でも何本かってよいのかわからなくて1ダース買ってきたことがあった。
6歳で山城町上狛から木津町に引越しをしてきた。
あの時縁側で紙にクレパスで絵を書いていた。
あの絵の道具は父親が買ってきたものだと今頃、気がついた。
小学校の時、「ヒラカワさん遊ぼ」といってくれた彼女のことはずっと心の中に残っていた。大人になって会うことはなかったが奈良市内の東向き通り商店街を歩いていると彼女が向こうから歩いてくるのが見えた。
もう雑誌記者の仕事をしていたので誰にでも声をかけることはできた。
彼女の顔ははっきりと覚えていたので私は「こんにちは」と声をかけた。
彼女は「あら」といってとても喜んで挨拶をしてくれた。
それも私は日常の挨拶の形ばかりと思っていたが私が覚えていたことをとても喜んでいたことを後日、聞いて私はまた心の中で喜んでいた。
60歳を越えてから小学校の同窓会などで顔を出すようになった。
そして小学校の何人かで旅行にいったり食べにいったりする仲間にしてくれたのは彼女の気配りがあったと今は思っている。
彼女はお人形さんみたいなかわいらしい顔をしていた。
家族団らんの中で大切に育てられたことは子ども心にそう感じていた。
大人になっていろいろ話してみるとやはりそうだった。
親は大変、苦労しているが彼女を大切に大切にして育てられたらしい。
そんなことを知っている彼女は関東に住んでいる兄や姉のところに訪問してはお世話をしている。
このへんの優しさ私は持っていないので彼女を尊敬している。
私はこう見えても長女、中学2年で弟ができてこの後、私は高校卒業して就職するまで家族のために食事を作り家のことをしていた。
実家にいた記憶は厳しい父親と働いて働く母親と虚弱体質の妹と溺愛されていた弟、そして父親の兄弟が多い家で親戚づきあいをする母親を見て祖母を見てきた。母親は長男の嫁で苦労したので私はけっして長男の嫁に行かせなかった。
何番目かの子どもの嫁にと探してなんとか父親が「いい」という人を探した。
核家族が出発だったが私の住んでいる家から歩いて数分のところに夫の兄がいて妹がいた。よく姑がきていた。姑・小姑に苦労した。私は心の病になって苦労した。それで子どもは1人になった。
病が治りかけの頃に乞われて雑誌記者になった。
それから心の病はストーンと落ちるように治癒した。
今も私の病気を治すのに苦労した母親や夫に感謝している。
あの時代に苦労したのが住んでいた佐紀町だった。
佐紀町といえばいろんなことを思い出す。
バイクに乗って水上池の周りを走っていると5月あたりになると水上池には蓮の花が咲き出す。あの大きい池に咲く蓮の花は見事だった。大きい蓮の花だった。平城宮跡の桜満開に何度も何度も心が洗われた。
大自然の大きさに自分1人の人間のちっぽけさを何度も思った。
自然が季節をめぐらして生きているのになぜ小さなことで悩んでいるのかと思ったものだった。15年間住んだ佐紀町にはいろいろな思い出が詰まっている。
そんなことを思い出せてくれた同級生のメールだった。
1度、ゆっくり話したいのに私は時間があって時間が取れない。
約束してもはたして----と、思うと約束することを鈍ってしまう。
女友達、彼女はJR奈良駅の近くで---時間が空くと3時間程度会っている。
ほとんど彼女の周りにいる人たちの愚痴である。
ほとんど私の知らない人の愚痴なので彼女も私には安心して愚痴をいっている。
聞いた話はいっさい外に出さないので愚痴がたまると私に空いている日程をメールで聞いてくる。それに合わして彼女と私の行きつけの喫茶店で会っている。
私がほとんど会うのは仕事関係かライフワーク関係です。
子どもの頃の癖がとれなくて1人で過ごす時間が好きでついつい1人で過ごしている。いきつけの喫茶店で1人、ゆっくり新聞を読んで本を読んでいる時が至福の時間です。
「本」を読めといつもいっていた父親の言葉には感謝している。
「女は黙ってろ」とはよく言ったのに「女は新聞や本を読むな」とはいっさいいわなかった。
小学5年あたりになるともう新聞が読めると思って会社から帰りに買う新聞を列車の中で読んで持って帰ってきては食卓のそれも私が座る横にいつも置いていた。そして水害の話をしながら新聞に書いてあるといっていた。
私は自然と新聞を手にとって読むようになった。
最初に新聞を読み始めた私の原点です。
「本も読め」ともよくいっていた。
「女は本を読むな」ともいっさいいわなかった。
結婚してきて本を読む、新聞を読む私はさんざん嫌味を言われて嫌われた。
本は買わないで図書館に行って借りてきた本を読んでいたのに嫌味をいわれた。
こんなことも重なって心の病になったが-----。
けれど老いになって父親がしてくれたことに感謝している。
人間として生きる1番大切なことを教えてくれたと思っている。
小学校のとき「ヒラカワさん遊ぼ」といった彼女のこともずっと忘れないだろう。感謝している。弟に声をかけてくれた同級生にも感謝している。弟も私が忙しいことはよくしっているのに、もういいかげん仕事をやめてゆっくりしたらという配慮に感謝している。同級生に「ねえちゃんは暇や。飯炊きしてるだけや」といってくれたことに感謝している。
今日はライフワークのために奈良県、近鉄沿線の田原本に行きます。
9時になると身支度です。
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