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鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

6月27日(水)晴れている。梅雨の間の晴れ間だろうか。

2012-06-27 09:18:42 | 直言!
韓国の知人に出す手紙は昨日、パソコンで文字入力をした。
もう長いこと連絡していない。
昨年の暮れから1度、用事があって電話したがそれからずっとしていなかった。
半年以上にもなった。
韓国に行きたい気持ちがあってももう旅支度をするのが面倒になった。
それに高齢の夫をそう長く留守番させることもできなくて-----。
そんなことで私の心の中から韓国が少しずつ遠くなっていっている。

先日、ルーツを持つ外国籍教員の報告の中である在日韓国人の女性がいった。
私は韓国人でもない。日本人でもない。
民族学校を卒業しているので韓国語を話してソウルの町を歩いているがやはり関西国際空港に降り立つとほっとしている。
「韓国の民謡『アリラン』にも日本の唱歌『おぼろ月夜』にも涙がでるほど血が騒ぐ」と話していた。
在日韓国人4世でも民族学校を卒業してアイデンテイテイを学んでいてもこうした心の現象がある。
そういう私も心の中で(同じです)とつぶやいていた。

私は若い時は韓国の歌に血が騒ぐこともなかった。
日本の学校教育を受けているので今の季節なら「おぼろ月夜」題名は忘れたが「さわやかな緑よ、明るい緑よ」の歌にほろりと涙がでそうになる。
学校で習った「富士山」の歌も好きだった。
中学校でならった「早春賦」に「椰子の実」も「水車小屋」も好きだった。
42歳で韓国の歌に多く触れることができた。
韓国語を習って1番先に習う歌は「故郷の春」、韓国の子どもたちが小学校で習う歌です。
やがて仕事の中でカラオケに行くこともたびたびあった。
いろんな流行歌を耳にすることがあった。
中でも「故郷の無情」「愛慕」が好きで耳にするとなぜか胸がキュンとしている。
私はこの歌はなかなか覚えられないし歌えない。
私が歌えるのは5曲「アリラン」「別離」「愛の迷路」「サランヘ」「故郷の春」です。
昔1世が歌っていた「アリラン」はもちろん「トラジ」「豆満江に-----」「木浦の涙」「ペンノレ(舟歌)」には在りし日の1世を思い出している。

そして韓国系民族学校・金剛学園の行事の1つ、「正月」(旧正月の1月1日)になると韓国の正月の歌を歌うのですがそれがまたこれも涙がでそうになって私の心が震えている。
「カチカチ、ソルナル オットケハジョ(みんな一緒に正月を迎えてどうしている)」という意味の歌です。そして続く「トンセン セットンチョゴリ チヨワハンダ アボジ、オモニ コンガハセヨ(妹の5色の民族衣装が素敵です、 おとうさん、お母さん元気でいて下さい)」という歌が3番まであるのです。
この歌はメロデイも良いので何度聞いても涙がでそうになります。
子どもたちは韓国の歌も日本の歌も歌えてとてもいい時代に育っているという環境に胸がキュンときます。

話は変わりますが先日、24日のNHKの歌番組「日本のうた」のスペシャルゲストが舟木一夫に都はるみでした。やはり上手い。舟木一夫と都はるみが並ぶと舟木一夫が断トツに上手かった。声量の豊かさがひしひしと伝わってくる。
ひょうひょうとした人だが歌になるとその上手さは抜群だった。
私と同じ位の年齢、67歳か68歳だと思う。ちっとも声量は衰えていなかった。都はるみも上手いがやはり声量の豊かさは舟木一夫が抜群だった。
1963年、昭和38年の高校3年生の歌でデビューしたがその当時とちっとも歌い方が変わらない声の張りに私は感動して聞きいっていた。

歳月を重ねた舟木一夫の人間性と重なってさらに高校3年生は幅があって深い歌い方に堂々として3番まで歌い上げる高校3年生の歌に感動していた。
「学園広場」も「修学旅行」も素晴らしい歌です。
舟木一夫さんの歌の上手さに今もひきつけられてコンサートに駆けつける60歳前後の男性たちのその深い意味がやっと理解できた。
また舟木一夫特集をしてもらいたい。
ぜひ紅白歌合戦では特別ゲストで出演してもらいたいものだ。
橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家まで私の年代では理解できる詩でメロデイです。この後から少しずつ詩の意味がわからない歌が出始めてくる。
そんなとき自分たちの心を歌ったフォークソングが皆さんの心の中に入っていった時代が少し理解できた。
1963年3月に高校を卒業してOLになっている。
当時、出始めた女性週刊誌に夢中になったものだった。
もう1つ、読み応えのある本が「婦人公論」の雑誌だった。
今の雑誌はそう関心がなくなってしまった。
高校卒業してOLをしていたころ妹が「高校3年生」をよく歌っていた。
なぜ私が高校3年のときにこの歌がでなかったのかとよく思ったものだった。
橋幸夫全盛期だったころだが時代の流れでてきてヒットした。
そのときの時代の潮流にあったのだった。
私は1944年生まれ、日本の敗戦の1年前に生まれた。
戦争の爪あとがいっぱい残っている中で育った。
1960年に入ると家にテレビと洗濯機が入ってきて電気釜は画期的なものだった。そんな時代と一緒にきた私の時代、何もなかったのにそれもこれも財産になる時代に生きたように考えている。

他にモロモロ、私の時代にしか味わうことしかできなかった外国人問題に朝鮮半島の南北分断国家、日本で生きる在日コリアンを2分化した時代に生きた。
日本人たちも関心のある人は北朝鮮支持にまわっていく方向性も見てきた。
父親が死ぬ間際にいった言葉「社会主義では飯がくわれへん」といった。
生まれ故郷が南北分断されたことの悲しみなのか。私に何を言いたかったのか。
もっと深く聞くべきだったと後悔している。
そんな時代の中で生きて北朝鮮に帰国した同胞の行方は何も語られることがない。ほうむられた北朝鮮への帰国者です。由一、北朝鮮の帰国者として名前が上がったのが生野区で生まれ育った指導者の関係者です。
なんと惨いとしかいいようがないです。
そんな時代に子ども時代をすごした。
先日、弟がいった。
「父親は判断を誤らないで子どもたち3人を公立高校に行かせ男の子は大学まで行かせてくれた」と話していた。
そんな時代のことを語りついでいかないといけないと思っている。

日曜日は仕事の原稿を作り月曜日はライフワークの原稿2本仕上げて3日間、家に篭っていた。今日は久しぶりに外出して行きつけの喫茶店で外の空気を吸ってきます。そのついでに郵便局によって手紙を出してきます。
また----。
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