鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

午後2時42分、もうすぐ3時、

2009-11-14 16:22:44 | 直言!
今日は朝10時前から寝転んで新聞を読んでいた。
そしたら携帯に電話が入った。仕事の電話だった。電話を切った後、それから少し昼寝しょうと思ったが寝られない。気になる。ライフワークの作業である。
起きてテレビを20分ばかり見てパソコンの前に座った。
とりあえずぼちぼち1つ1つ片付けていくしかない。焦ってもいけないのでゆっくり1つ1つ片付けている。
そんなことで今日は新聞読むときだけゆっくりしていた。

朝から降っていた雨は午前10時頃からやみだした。
今午後3時、カラリと晴れた天気である。
今日・昨日と金大中元大統領の追悼集会が東京と大阪で開かれているらしい。
韓国の国会議員2人が来ていると韓国の新聞では報道されていた。
日本人には金大中元大統領にファンが多いので多くの人がかけつけているだろう。しかし私はそんなに関心がない。
人それぞれの考え方がある。
しかし私はそんなに関心がない。
大統領になられた時は民主化運動をして韓国を民主化にされたことで大統領の就任式もテレビの前で見ていたがその後の政策が思っていたことと違っていた。
韓国に脱北者した人に手を差しのべると思ったらむしろ表に出さないようにした。人権問題に対して運動してこられたのに北朝鮮の人権問題に一切ふれることがなかった。この話は脱北した朝鮮日報勤務の姜哲煥さんも日本の講演の中で話された。この人の講演は北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会でもよく講演されていた。北朝鮮の収容所の証言には言葉にできないほどものがあった。
こんなことで北朝鮮の実態が明らかにされていった。やはり世間でいわれている事柄が浮き彫りにされてきた。それでも北朝鮮に力を入れていたのかと思ってしまうことも多くあった。
1950年代から70年前半まで北朝鮮を支持する在日コリアンが多かった。
しかしやがて北朝鮮の仮面がはがれてきたときに何かしら見えない力関係の怖さを感じた。
もちろん日本政府にも責任がある。在日コリアンだけの責任できない。
北朝鮮に帰国した同胞たち、地上の楽園と言われて帰国したもののそこは地獄だった。昨日のサンケイ新聞にも掲載されていた。日本で有名だったオペラ歌手、テノール歌手・永田絃次郎さん。韓国名は金永吉、北朝鮮に帰国するときは夢膨らませて新潟から帰国船に乗った。1960年あたりだという。日本を離れる時に色紙に書き残したものや写真が見つかったという。
本人は希望に燃えて北朝鮮に帰ったが日本人の奥さんは不安な顔をしていたという。離陸直前に書かれたものである。
そして北朝鮮で日本人夫人の日本への帰国を北朝鮮で要望したことで家族全部が収容所に送られて消息は分かっていない。
なんとむごいことである。日本にいても差別と蔑視で苦悩の日々、北朝鮮に帰国すれば希望にあふれた生活ができると信じて疑わなかっただろう。
しかし北朝鮮に着くと夢は崩れさった。
こんな在日コリアンの多くの犠牲者がいたにもかかわらず日本に亡命しておられた時の暮らしの支援者は------。
ここには書けない。そんなことを思うと北朝鮮に心が傾く金大中元大統領に私の心は少しずつ離れていた。
私がお世話になった領事も金大中元大統領の側近中の側近が大阪におられた。
公報官時代も私の見えないところで大変お世話になった。また総領事として大阪に赴任してこられた時も大変お世話になった。
韓国に帰国されてからどんな暮らしをしておられるのか私のところまでは届いてこない。しかし日本も韓国もその世相のあり方は手に取るように把握しておられるだろう。日本語も堪能だったのでこのブログも見ておられるかもしれない。もしそうだとしたら「あれほど世話したのになんというこというのか」とお叱りを受けそうだがやはり脱北者が日本に戻ってきて証言される内容には北朝鮮の指導者の政策に憤りを思ってしまう。
こんなこと思うのは私だけではないだろう。
また拉致された日本人たち、親は高齢になっておられる。それでも子どもは生きていると信じて拉致被害者を取り戻す運動をしておられる。
拉致されていたことは日本の警察は本当に知らなかったのだろうか。
当時は社会党が北朝鮮と活発に交流していた。ここから情報は入っていたはずだと思っている。
1975年前後に私の父親は日本海に家族連れで海水浴に行くと必ず「行くな」と言った。その理由は「北朝鮮に拉致される」だった。まさかそんなことはないと思っていたが年月が流れて父親の言っていたことが事実だと分かった。
どうして父親は知っていたのか。中小企業で普通に会社員をしていた父親にどうしてそんなことが分かっていたのか。普通の庶民の父親が知っていて警察が知らないはずがないと私は思うのだが。こんなときに日本にいた金大中元大統領の身辺はどうだったのかとふと考えてしまう。

大統領になられて大阪に来られた時はどの場所にも取材のために現場に入っている。日本語は流暢に話された。通訳を入れようとすると時間がもったいないといわれてすべて日本語で挨拶された。ただ民団大阪本部主催の晩餐会では韓国語一辺倒だった。大勢の日本人報道関係者も入った。日本のメデイアが持っておられたカメラの大きさとその迫力に驚いたものだった。
韓国に帰国されるときも関西国際空港まで見送りに行った。
大統領になられたばかりで私もたくさんの期待をしていたが南北問題は私の思っているものではなかった。
韓国と北朝鮮は公平にしないといけないのに北朝鮮に心が傾き韓国の町には北朝鮮支持から日本国国籍を取った在日コリアンそして日本の支持者らが多く韓国に訪れた。危険度が増していたのかもしれない。
明洞の世宗ホテルに宿泊していた私は韓国の知人がソウル市庁の近くのホテルに変えるようにと言った。
そういえば明洞のホテルに泊まっているとき夜の11時ごろ、ホテルの近くにパンを買いに行った。帰り1人の男性に呼び止められて「これからちょっと行こう」という。たぶん食事か飲みにいくのか----。
こんな夜に呼び止められたことがおかしいと私は察知して「いいです」と言って一目散に走った。走った。男性は少し走り出したがあきらめて追いかけてこなかった。金大中元大統領の時代である。そして翌年、ホテルを変えてみようとソウル市庁近くのホテルに宿泊したときに韓国の知人は「これからここに泊まるように」と言った。幸い隣のホテルは在日韓国人が経営しているホテルと分かってニュー国際ホテルを利用している。
それでもこのホテルにも誰かがやってきた。ロビーで待っている。
たまたま韓国の知人とも待ち合わせしているロビーで居合わせた。韓国の知人はその人に韓国語で私のこと「真面目で優しい気持ちの人です」と話された。
私が部屋に何かを取りに行っているときに韓国の知人はこの人に何を話されたのかその翌日から来なくなった。盧武鉉大統領になってまだそんな経っていない時だった。こんなときにいつも南北分断国家の現実を目の当たりにしてしまう。韓流でわいている韓国に行く日本観光旅行者、過去の歴史は何も知らないだろう。ただ浮かれて買物して韓国の俳優にうっとりして帰っていくだけである。こんな光景も私は好きになれない。
もう韓流について私は2002年の拉致被害者の帰国で卒業してしまった。
こんな問題が今も横たわっている。私は斜めから韓流を見ている。
昨日、韓国観光公社から観光案内、列車の旅の案内がたくさんの写真が入ってメールで送られている。こんな列車の旅はしたいと思わず釘付けになって写真を見ていた。韓国訪問の年、韓国のいいところを見せるのもいいだろう。しかし日本とつながりのあるマイナスの歴史史跡なども入れて観光ツアーを組んでもらいたい。
金大中元大統領の追悼会になぜかいろいろなことが走馬灯に頭を駆け巡った。
さて夕食の支度です。

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