ちゅうたしげるのPoemStation
2005年11月16日(水)
山口泉「新しい中世の始まりにあたって」
ー冷静な絶望のための私信ー
を読み返す
雑誌「世界」1992年4月号~12月号
1992年の春だったから、13年前のことか。わたしは病気からなんとか立ち直り、半日アルバイトをしながら、気ままに暮らしていた。病気前ほどではないが、活動性も取り戻していた。
夜、ベッドで寝る前にふと雑誌『世界』を取り出して読もうとした。そこにはソ連・東欧の社会主義の崩壊をきっかけにしたあれこれの「革命」運動圏の陥弊が見事に描かれている部分があった。
わたしはまだ共産党員だったが、その眼にした部分に日ごろ感じていたわたしの思いを痛烈に意識化させるものを感じて凝目した。それが山口泉との出会いだった。
文体がやさしくはないのでわたしはその論稿の意味するところをほとんどとらえきれなかった。しかし、そこにはほんものの思想と呼べるものがたしかにある、とわたしは直観した。その後、何度も何度も読み返した。
そしてきょうひまに任せて、十数回目の読み直しをした。十年たってやっと、このごろその論稿の意味を少しずつ捉えることが出来るようになった。日本広しと言えど、そうとう分量のこのドキュメントをまだ読み直したりするのはおそらくわたしぐらいしかいないだろう。
戦後近代文学の雄・埴谷雄高も当時この論稿を読んでいて、そののち埴谷雄高と山口泉は論稿について対談する。
おそらく、さすがの埴谷雄高もこの論稿の意味を十全には理解しえていなかったのではないか。特に、生殖、血縁、家族、と君主制の問題などは、日本の言論界では手にしようにも届かない、本質的な問題でありながら、誰も触れ得ないでいる。真に問題にし得る資格のある者はほとんどいないのかもしれない。
山口泉の問題にしている射程は深く、遠い。埴谷雄高は、簡単に何千年とか何万年とか、宇宙の果てだとか口にするが、ほんとうに人間にとって意味のある距離と時間を問題にしているのは、山口泉、ひとりだろう。
真の思想のバトンリレーは、避けがたく「少数から少数者へ」らしい。
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