先日北浦和にスーパーマゼンダの応援に行った時に
受付で頂いたURC(浦和ロックンロールセンター)の小冊子なんですが
中に当時の田島が原のフリーコンサートのチラシや
蕨にあった「にんじん」のスケジュール表が載ってまして
これは超懐かしかったです
まだそれ程野外フェスも色々な制約が有り難しかった時代
おまけにフリーコンサートでした
確かハルヲフォンで3年続けて出演した記憶もありますし
URC(ウラワロックンロールセンター)のからみで
イヴェントや学園祭そして浦和のライブハウスで演奏した記憶もあるんですわ
しかし自分の中では断片的にこんな事があったなとか
こんな感じで演奏したなとは覚えておるんですが
時系列的には今一つ断片的と言うんでしょうか
関連性の薄いままに記憶の中に留まっているんですね
そんな時にこういう年代や日付けのはっきりした資料があると
改めて自分の記憶が整理されていくようで
はなはだ有難いと言うか整理が付く訳であります
まずこのフリーコンサートに初めて出演したのが
これによると1975年の9月14日という事になる訳です
ほぼ半世紀前ですね
この時は最初のアルバムの制作前の頃
キャロンを含めて6人編成のファンキーダッコの頃から
ドラムの長谷川とギターの小林が抜けて
私がドラムに戻って
ギターに四人囃子の森園を挿して演奏した時ですね
ヴォーカルにはキャロンがまだ残っておりました
まあこういう記憶は妙な処だけ今でも鮮明に覚えておりまして
田島が原のステージは広い野っぱらに
客席の目線よりちょっと高い位に特設の舞台が組んであって
ステージの後方に階段があってそれを上るとステージ
私の中で一つだけ鮮明に覚えていると言うのは
「ああ、スネアのチューニング締めすぎたな~」でありまして
まだそう慣れてない野外の演奏
最初に音出したときの焦りだけが今でも記憶に残っております
で、どんなバンドと一緒だったかというと
同日がタジマハール旅行団・あんぜんBAND・ウエストロードBB・
ヴェジタブルアンサー・うたち・カララ
という事は山岸も東京に出てきた頃かもしれません
そして翌日が
あんぜんBAND・四人囃子・頭脳警察・メリケンブーツ
ジプシースネークBB・ホールドアップ・だててんりゅう
といったラインアップ
で、2回目が翌年
この時のメンバーは私、近田、高木、小林というアルバム発売時のメンバーで
アンコールで岡井大二、中村哲を加えて
セッションしたのもこの回だったかもしれません
もうこの頃はハルヲフォン以外にも
私がリーダーの営業バンドをやっていましたし
何分記憶が前後しておりますので
この時がそうだったと思うんですわ
で、その時の他の出演メンバーは
あんぜんBAND・四人囃子・メリケンブーツ
・3/3・ルナテイック・ベジタブルアンサー
・うたち・龍 って感じですか
で3回目は77年の9月15日
この時にタイトルの「我々のコーラス評価が爆上がりした夜」という
その様子が確実に記憶の中で展開される訳ですが
その説明の前に当日の出演バンド等を
四人囃子・キングコングパラダイス・マンドレイク
・メデューサ・龍・魔神岩・ベジタブルアンサー
・だててんりゅう・ハードメイプル・長沢ひろ......ですね
メデューサって事は鈴木さえちゃんも
この頃すでにガールスバンドのはしりだったんですね
で、今回の本題に入ってまいりますが
「我々のコーラス評価が爆上がりした夜」としましたが
勿論そのライブに立ち会ったスタッフ、ミュージシャン限定
つまり関係者限定であるのはいわずもがナな訳です
で、まず理解して頂きたいのは
この時代まだ野外フェスであるとか
フリーコンサートとか
警備であるとかスタッフであるとかが
今のように充実していた時代では無いという事と
全てが手探りと申しますか
なんとか自分たちの手でこの国で
ロックフリーコンサートを実現させて行きたいと言う
いわば情熱だけで物事が進んでいた時代の事
それを頭に入れつつ話を聞いて頂きたいと思う訳です
という事で話を進めますが
我々にとって三回目の田島ヶ原の頃と申しますと
銀座NOWのレギュラーでもあったし
各種のロックコンサート、フェステイヴァルにも数多く出演し
つまりバンドも行け行けの状態の頃でした
で、其の日は生憎銀座NOWの生放送とかぶってまして
放送終了後直ちに楽器者に乗って
銀座から浦和へ移動という手順
勿論白地にスパンコールの付いた衣装もそのまま
放送用に顔に塗ったドーランも落とさず
まあ、はっきり言って着のみ着のままという状態ですな
で、その日の段取りとしましては
トリが四人囃子
その前が我々ハルヲフォンという順序だったんですが
当時のフリーコンサートという事を差し引いても
これは関係者や囃子のメンバー、
そしてスタッフに改めて確認したいのですが
其の日は確かにとてつもなく野外は寒かったし
我々の到着が若干遅れた事もあったんですが
我々が到着した時には
トリの筈の四人囃子がもう演奏を開始しておりました
つまりその時点でトリは我々に変わっていた訳で
いや~到着してすぐ演奏なら解りますが
まあ、それでも我慢して出番を待ちましたわ
全員揃いの薄手の衣装着たまま
なんで、こうなってるんだ?という思いも持ちつつ
当時のロックバンドの風体から考えますと
特殊な立ち位置とでも言える出で立ちではあった訳です
で、この時の状況を詳しく説明出来る方は
もはやURCの中にも何名かしか残っていないでしょうね、おそらく
それ以外は臨時に雇われたバイト君達のような気も致しますし
で、四人囃子の演奏が終了して
いきなりの出番変更からのセッティング戻しという事で
舞台上はかなり混乱しているなという感じは致しました
まあ具体的にはマイクの移動等きちんとした指示があって
セッテイング完了の伝達があって
さあ,音出しになるわけですが
もう随分押していますし
会場の終了時間も迫ってたんでしょうな
いっちゃって下さいというような
曖昧かつ不明瞭な判断が下され
もう指示系統も収集つかなくなって
ある意味お手上げ状態だったのかもしれません
私のヴォーカルマイクは本来バスドラ用にセットされてたものだったとか
ベースに微妙に歌用のリヴァーブがかかってたり
もうセッテイングはハチャメチャになっておりました
つまりPAにはどの回線がどれだか解らなくなっていたんだと思います
これはURCから以前出したハルヲフォンライブの音源にも
数曲証拠としても残っておりますから
一聴すればその混乱が手に取るように解ります
いやもう昔の事ですからURCのスタッフや
PAを責める気は毛頭ありませんが
あの時の混乱の推移を
今この半世紀以上の時間が経ち
整理できた流れの中で改めて詳しく知りたい気持ちは今でも有ります
この場を借りてあの真相はどうだったのかと
もう半世紀たった今だからこそ
笑い話 バンドの歴史の側面として
穏便かつ冷静に聞いてみようかなと かく思った次第です
で、今日の話ですが
長い演奏経験の中にはそういう事も多々ございますが
我々はそういう事についてクレームを出した事はございませんで
アンサンブルとかそこら辺に超ナーヴァスになるより
音さえ出てりゃなんとか出来るという
そんな自信と気概をもっておりましたw
まあそれに此処までの状況ですと
開き直る以外にどうしようもない訳で
まあ、そんな姿勢が今では「どうなの?」と思われるでしょうけど
あにはからんや後日談として
このような話がURC内スタッフや
関連ミュージシャンの間でなされていたようです
曰く
「いや~ハルヲフォンって本当にプロだわ~!
ビックリしたわ 凄えわ
あの状況の中でよく普通に音だして
コーラス迄ばっちり良く決められるよな~!
しかもクレームも付けずに
きちんとステージこなしてサッと帰ったのは流石だわ!」
だとか......うむ......
イヤ...あのね~、ホント言いますと、あの状態は厳しかったですわ
なにせ他の音なんかまともに確認できなかったですし
バスドラにディレイが掛かっておりましたし
ヴォーカルマイクは多分どこかのアンプに使ってた奴でしょう
いやそれでもいつも以上に
近田のMCはテンション上がってましたし
クレーム一つ付けずに
ステージ盛り上げてトリ務めて帰ったのは
自分ながら格好良いとも思いましたけど
「いや~そこかい!」って感じですが
まずその前に ここで改めまして
出番変更の決定下したのは誰なのか?
そもそも最初に誰が出番を変えろと言い出したのか
やりながらPAのレベルとか変えて行ったんだろうけど
それがどんな状態だったのかは
もう何十年も前の話ですけど
笑い話として聞きたい気持ちも致します
おそらくURCの中には
事の顛末を知っている人が残っていそうですし
いや又その反面
その事があって以来
自他共に
どんな逆境の中でも
ビクともしない
デイスコで鍛え、野外で育んだ
生身の身体で覚えた屈強で
揺ぎの無いロックなコーラスは
我々自体も認めるところとなった次第です
追記
田島ヶ原以外でのURCの関連LIVE
上の学園祭のオールナイトLIVE
蕨にあったライブハウス「にんじん」とか
改めて当時の顔ぶれをみると感慨深いものがありますな
で、この後もURC繋がりで
PEGMOの頃もよくお世話になりました という事で
そういう事はいつまでも覚えてるもんなんですわ 乙