創世記
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくだ
さった。
3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪
を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に
生きないように。」
3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこ
から取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の
東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
ここで「われわれ」という言葉が出てきますし、「主」という言葉が何回も何回も
出てきます。この主なる神とは、もちろん三位一体の神を指します。ヘブライ語でこ
の神は複数となっています。この三位一体なる神は、堕落した人間を救うために、逃
れ道を作られました。
「主なる神は言われた」となっていますが、この主というのは、ご自分を啓示され
る神を意味しています。すなわち神の啓示とは、いつもイエス様です。主なる神は、
アダムにいのちの木を食べる機会を与えられたのですが、罪の刑罰によってアダム
は、エデンの園から追放されてしまったのです。
けれども、もしアダムが神の備えられた逃れ道を選ぶならば、永遠のいのちの道を
開かれたに違いない。主なる神の逃れ道は、いったい何でしょうか。罪だらけの全人
類の代表者、すなわち、神の小羊なるイエス様の犠牲の死は、備えられた逃れ道でし
た。
けれどもどうして、主なる神はエデンの園の東に、ケルビムと回る炎の剣とを置い
たのでしょうか。なぜなら、悪魔はどうしても、いのちの木への道を遮ろうと思った
からです。このケルビムは、神の聖さと主の愛を象徴しています。この主の聖さと主
の愛は、罪に堕落した人間に永遠のいのちを得る道を作ろうとしたのです。
ローマ書
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって
死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類
が罪を犯したからです。
5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さば
きのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多く
の違反が義と認められるからです。
5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとす
れば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イ
エス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたの
と同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられ
るのです。
5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと
同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
この前に話したように、全人類の代表者、すなわち神の小羊なる主イエス様の犠牲
の死は、備えられた逃れ道です。けれども神の御子なるイエス様は、この地上に来ら
れなければ死ぬことができません。イエス様は、何か教えるために来たのではない。
死ぬため。死ぬためにイエス様は、人間の形をとるようになり、生まれたのです。
この奥義について、イエス様の受肉について聖書の中でたくさん書かれています。
たとえば、人となることを預言されただけではなく、2番目、イエス様の神聖を啓示
されたのであり、3番目、イエス様の人間性を実行されたのです。
イエス様の人となることは、何千年前に預言されたのです。イエス様は、天地創造
の前に神の小羊として死ぬことを承諾されたのです。主なる神の人間の我儘に対する
答えは、御子なるイエス様の犠牲の死でした。イエス様は、人となることは初めて創
世記3章15節に預言されたのではないでしょうか。
創世記
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵
意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
こういうふうに、主なる神は蛇に、すなわち悪魔に言われました。この女から生ま
れた人は、特に力強い人であると記されています。この人は、女の末であることも
はっきり書いてあります。
これも注意しなければならないでしょう。普通の子供が生まれた時、いつも男の末
から生まれると言います。けれども、御子イエス様の場合、自分の誕生のために人間
的なお父さんは、必要ではなかったのです。だから女の末、女の子孫と書いてありま
す。女の末は、悪魔の頭を砕くと預言されました。すなわち、この?????は悪魔
に打ち勝つようになると預言されました。
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくだ
さった。
3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪
を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に
生きないように。」
3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこ
から取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の
東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
ここで「われわれ」という言葉が出てきますし、「主」という言葉が何回も何回も
出てきます。この主なる神とは、もちろん三位一体の神を指します。ヘブライ語でこ
の神は複数となっています。この三位一体なる神は、堕落した人間を救うために、逃
れ道を作られました。
「主なる神は言われた」となっていますが、この主というのは、ご自分を啓示され
る神を意味しています。すなわち神の啓示とは、いつもイエス様です。主なる神は、
アダムにいのちの木を食べる機会を与えられたのですが、罪の刑罰によってアダム
は、エデンの園から追放されてしまったのです。
けれども、もしアダムが神の備えられた逃れ道を選ぶならば、永遠のいのちの道を
開かれたに違いない。主なる神の逃れ道は、いったい何でしょうか。罪だらけの全人
類の代表者、すなわち、神の小羊なるイエス様の犠牲の死は、備えられた逃れ道でし
た。
けれどもどうして、主なる神はエデンの園の東に、ケルビムと回る炎の剣とを置い
たのでしょうか。なぜなら、悪魔はどうしても、いのちの木への道を遮ろうと思った
からです。このケルビムは、神の聖さと主の愛を象徴しています。この主の聖さと主
の愛は、罪に堕落した人間に永遠のいのちを得る道を作ろうとしたのです。
ローマ書
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって
死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類
が罪を犯したからです。
5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さば
きのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多く
の違反が義と認められるからです。
5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとす
れば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イ
エス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたの
と同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられ
るのです。
5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと
同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
この前に話したように、全人類の代表者、すなわち神の小羊なる主イエス様の犠牲
の死は、備えられた逃れ道です。けれども神の御子なるイエス様は、この地上に来ら
れなければ死ぬことができません。イエス様は、何か教えるために来たのではない。
死ぬため。死ぬためにイエス様は、人間の形をとるようになり、生まれたのです。
この奥義について、イエス様の受肉について聖書の中でたくさん書かれています。
たとえば、人となることを預言されただけではなく、2番目、イエス様の神聖を啓示
されたのであり、3番目、イエス様の人間性を実行されたのです。
イエス様の人となることは、何千年前に預言されたのです。イエス様は、天地創造
の前に神の小羊として死ぬことを承諾されたのです。主なる神の人間の我儘に対する
答えは、御子なるイエス様の犠牲の死でした。イエス様は、人となることは初めて創
世記3章15節に預言されたのではないでしょうか。
創世記
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵
意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
こういうふうに、主なる神は蛇に、すなわち悪魔に言われました。この女から生ま
れた人は、特に力強い人であると記されています。この人は、女の末であることも
はっきり書いてあります。
これも注意しなければならないでしょう。普通の子供が生まれた時、いつも男の末
から生まれると言います。けれども、御子イエス様の場合、自分の誕生のために人間
的なお父さんは、必要ではなかったのです。だから女の末、女の子孫と書いてありま
す。女の末は、悪魔の頭を砕くと預言されました。すなわち、この?????は悪魔
に打ち勝つようになると預言されました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます