櫻井郁也/十字舎房ポルトガル公演報告
第三章「舞踏ワークショップ~ポルトガルの人々」(3)
引き続きFaro/Portugalでのワークショップレポートです。
【越境を前提として】
ワークショップは進行しています。
言葉の温度に反応しているんでしょうか。意味の通じる英語に直される前に、日本語に対して彼らの身体は動いている・・・。
コトダマ(言霊)、という言葉があります。ここポルトガルでの稽古では、身体と魂をつなぐ要素として、その存在を感ずる事しばしばです。
日本語という、ほとんど通じないはずの言語に耳を澄ましながら動いていると、音楽を聴くような態度で言葉に接することができるのでしょう。僕の口頭から滑り出ることばの一つ一つを受けて、身体が微妙に変化し、説明調のことばでさえ、冷静に聞くというよりは、その硬柔や速度感にノッテいくような感じで身体が揺らぎ・動く。
アシスタントのYUKOは、とても繊細なテンポのコントロールと息継ぎを行いながら、英語に直していってくれます。
英語によって論理が働いた瞬間、身体にも一種のコントロールが与えられ、揺らぎは具体的なベクトルをもった運動に変換されます。そして、また僕の日本語のなかで、ベクトルは破壊され、未知数の揺らぎへ・・・。
意味の共有というよりは、発話衝動と呼吸を共有しながら、20名あまりの肉体が感覚と論理のなかで、大きく波打っている感じ。彼らの動きは、見知らぬ響きの海に投げ出された生々しい身体の震えのようにも見えます。舞踏の根本は心身両面での「ふるえ」の表出にあり、と僕は思っているので、この状態は、実に興味深く映ります。
日本でも、僕は舞踏のクラスや作品の振付作業で無数のことばを発しています。
敏感に耳を澄ましてキャッチしてほしい反面、その一言一言への論理的な理解を促す気持ちは、ありません。
解ってもらおうとして発する言葉に、肉体は停滞し、時にこわばります。
だけど、理解を徹底的に放棄しながら言葉を発していくと、なぜか肉体は動くのです。しかも、言葉を増幅させるがごとき動きが現れる。
それが、ここポルトガルでは、より強烈です。
僕を含めて、全員がヴァイブレーションで関わる以外、仕方ないのですから。
論理とは別の次元で、身体のイメージを抽出・構築する、ことばの処方があるのではないか、と思います。
僕らの口頭からあふれ出る「ことば」は、実にさまざまな要素が複雑にからみあったものであり、「生身のことば」は、文字で表現された言語コミュニケーションとは別の次元をもっています。さらに、「通じない」ことを前提とした時、それはリズム、速度、熱の伝達手段として、強く機能し始めます。
呼吸感・速度感・ゆらめき・滞り・強弱・熱感覚、などなど、単語や文脈に対する知識をカットしたときに、より強く感じられることばの要素は、どこか音楽やダンスに似ています。
そのことに対する気付きでしょうか。徐々に、英語への反応も変化しています。
やや重量感のある日本語は足腰や脊椎に、英語独特の風のような流れは眼や爪先に反応が起きているような感じがします。
いつしか、日本語と英語の境目はあいまいになり、音楽と言語の境目さえあいまいになって、肉体の波に還元されていく感じは、壮観。
ことばを語る行為とは、喉が空気とダンスしている結果なのですから、当然なのですが・・・。
やがて、声と打楽器のあいだを、跳躍し、踏みしめ、回る身体。
たくましい姿です。ダンスの原点を、見ているようでワクワクします。
【BUTOH】
ところで、この地に来て、ヨーロッパでの舞踏観を耳にしました。
当初はアヴァンギャルドな舞台芸術として。それが「BUTOH」として認知されるに比例して、自らも踊らんとする方々が増えて来た。
しかし、いま、やはり「舞踏は、日本人の身体でないと出来ないのではないか」と議論する批評家や学者もちらほらいるんですって・・・。
だけど、そりゃ迷惑デス!というのが、僕の立場。
舞踏は身体の背景を大事にしているけれど、それは個々人の立脚点を大事にしようとしているのであって、日本というローカリティーを問題にしているわけでは無いと思いますので。まず、何よりも個人。
もちろん、舞踏とは日本で生まれたダンスの処方です。僕たち舞踏家は、明治以来の脱亜的価値観と一線を画したものとしてやってきたわけですから、日本および日本人の身体・生活を担った、いわばルネサンス的な背景を否定する事は出来ない。
しかし、それはもとより踊る個人の生活背景を存分に抽出したいという作舞上の欲望のあらわれであり、何も日本人でない人が日本的である必要は全くないのです。身体への集中から、現在その人を支えている背景がハッキリ出れば良いのではないでしょうか。
舞踏は、西洋の踊りに対立するものでも、バレエや能などの様式芸術に対する異論でもなく、ライフスタイルの推移に対応して現れた、ごく自然な身体観の反映であった、というのが僕の考えです。
まずは先入観としての「日本・日本人」というバックグラウンドから自由になり、己の肉体と向かい合ってもらう、という事が、なによりもこの6日間のレッスンで行われねばならないと思いました。
僕の中では、ことば・音楽・ダンス・幾何学といったものが、ほぼ同じ次元で共存しています。解釈ではなく、感じ取る事。そう徹すれば、これらから感じ取れる事は無数にあります。それらが周囲の環境と微妙に振動し合いながら身体の内外に交錯するありさまが、僕自身にとっての「舞踏」です。舞踏とは意味の解体。あらかじめ規定された、あらゆるコードに対する、生身の肉体の反乱です。
あくなき越境と高度な文化交錯という状況下で、「BUTOH」は、魂の交感に到ろうとするスタンダードなダンスのスタイルとして発展し始めているかに思えてなりません。それは「舞踏」が、個人の身体性を重視するダンスであるという特徴をもっているからだと思います。芸術は、根本的に存在を未知に向かって解き放つためのもの。あらゆる統合・統制から自由になりたい、という衝動を受け入れる可能性を、舞踏はもっていると思います。個人背景の尊重と差異ある存在の共存ということが舞踏の基本的な世界観かと思います。
だから、民族性やスタイルの出所以上に、踊る当事者個人の肉体と、それが向かい合っている瞬間へのセンスのほうが第一義なのではないかと思うのです。
第三章「舞踏ワークショップ~ポルトガルの人々」(3)
引き続きFaro/Portugalでのワークショップレポートです。
【越境を前提として】
ワークショップは進行しています。
言葉の温度に反応しているんでしょうか。意味の通じる英語に直される前に、日本語に対して彼らの身体は動いている・・・。
コトダマ(言霊)、という言葉があります。ここポルトガルでの稽古では、身体と魂をつなぐ要素として、その存在を感ずる事しばしばです。
日本語という、ほとんど通じないはずの言語に耳を澄ましながら動いていると、音楽を聴くような態度で言葉に接することができるのでしょう。僕の口頭から滑り出ることばの一つ一つを受けて、身体が微妙に変化し、説明調のことばでさえ、冷静に聞くというよりは、その硬柔や速度感にノッテいくような感じで身体が揺らぎ・動く。
アシスタントのYUKOは、とても繊細なテンポのコントロールと息継ぎを行いながら、英語に直していってくれます。
英語によって論理が働いた瞬間、身体にも一種のコントロールが与えられ、揺らぎは具体的なベクトルをもった運動に変換されます。そして、また僕の日本語のなかで、ベクトルは破壊され、未知数の揺らぎへ・・・。
意味の共有というよりは、発話衝動と呼吸を共有しながら、20名あまりの肉体が感覚と論理のなかで、大きく波打っている感じ。彼らの動きは、見知らぬ響きの海に投げ出された生々しい身体の震えのようにも見えます。舞踏の根本は心身両面での「ふるえ」の表出にあり、と僕は思っているので、この状態は、実に興味深く映ります。
日本でも、僕は舞踏のクラスや作品の振付作業で無数のことばを発しています。
敏感に耳を澄ましてキャッチしてほしい反面、その一言一言への論理的な理解を促す気持ちは、ありません。
解ってもらおうとして発する言葉に、肉体は停滞し、時にこわばります。
だけど、理解を徹底的に放棄しながら言葉を発していくと、なぜか肉体は動くのです。しかも、言葉を増幅させるがごとき動きが現れる。
それが、ここポルトガルでは、より強烈です。
僕を含めて、全員がヴァイブレーションで関わる以外、仕方ないのですから。
論理とは別の次元で、身体のイメージを抽出・構築する、ことばの処方があるのではないか、と思います。
僕らの口頭からあふれ出る「ことば」は、実にさまざまな要素が複雑にからみあったものであり、「生身のことば」は、文字で表現された言語コミュニケーションとは別の次元をもっています。さらに、「通じない」ことを前提とした時、それはリズム、速度、熱の伝達手段として、強く機能し始めます。
呼吸感・速度感・ゆらめき・滞り・強弱・熱感覚、などなど、単語や文脈に対する知識をカットしたときに、より強く感じられることばの要素は、どこか音楽やダンスに似ています。
そのことに対する気付きでしょうか。徐々に、英語への反応も変化しています。
やや重量感のある日本語は足腰や脊椎に、英語独特の風のような流れは眼や爪先に反応が起きているような感じがします。
いつしか、日本語と英語の境目はあいまいになり、音楽と言語の境目さえあいまいになって、肉体の波に還元されていく感じは、壮観。
ことばを語る行為とは、喉が空気とダンスしている結果なのですから、当然なのですが・・・。
やがて、声と打楽器のあいだを、跳躍し、踏みしめ、回る身体。
たくましい姿です。ダンスの原点を、見ているようでワクワクします。
【BUTOH】
ところで、この地に来て、ヨーロッパでの舞踏観を耳にしました。
当初はアヴァンギャルドな舞台芸術として。それが「BUTOH」として認知されるに比例して、自らも踊らんとする方々が増えて来た。
しかし、いま、やはり「舞踏は、日本人の身体でないと出来ないのではないか」と議論する批評家や学者もちらほらいるんですって・・・。
だけど、そりゃ迷惑デス!というのが、僕の立場。
舞踏は身体の背景を大事にしているけれど、それは個々人の立脚点を大事にしようとしているのであって、日本というローカリティーを問題にしているわけでは無いと思いますので。まず、何よりも個人。
もちろん、舞踏とは日本で生まれたダンスの処方です。僕たち舞踏家は、明治以来の脱亜的価値観と一線を画したものとしてやってきたわけですから、日本および日本人の身体・生活を担った、いわばルネサンス的な背景を否定する事は出来ない。
しかし、それはもとより踊る個人の生活背景を存分に抽出したいという作舞上の欲望のあらわれであり、何も日本人でない人が日本的である必要は全くないのです。身体への集中から、現在その人を支えている背景がハッキリ出れば良いのではないでしょうか。
舞踏は、西洋の踊りに対立するものでも、バレエや能などの様式芸術に対する異論でもなく、ライフスタイルの推移に対応して現れた、ごく自然な身体観の反映であった、というのが僕の考えです。
まずは先入観としての「日本・日本人」というバックグラウンドから自由になり、己の肉体と向かい合ってもらう、という事が、なによりもこの6日間のレッスンで行われねばならないと思いました。
僕の中では、ことば・音楽・ダンス・幾何学といったものが、ほぼ同じ次元で共存しています。解釈ではなく、感じ取る事。そう徹すれば、これらから感じ取れる事は無数にあります。それらが周囲の環境と微妙に振動し合いながら身体の内外に交錯するありさまが、僕自身にとっての「舞踏」です。舞踏とは意味の解体。あらかじめ規定された、あらゆるコードに対する、生身の肉体の反乱です。
あくなき越境と高度な文化交錯という状況下で、「BUTOH」は、魂の交感に到ろうとするスタンダードなダンスのスタイルとして発展し始めているかに思えてなりません。それは「舞踏」が、個人の身体性を重視するダンスであるという特徴をもっているからだと思います。芸術は、根本的に存在を未知に向かって解き放つためのもの。あらゆる統合・統制から自由になりたい、という衝動を受け入れる可能性を、舞踏はもっていると思います。個人背景の尊重と差異ある存在の共存ということが舞踏の基本的な世界観かと思います。
だから、民族性やスタイルの出所以上に、踊る当事者個人の肉体と、それが向かい合っている瞬間へのセンスのほうが第一義なのではないかと思うのです。