■アメリカ同時多発テロ事件③
《アルカーイダ》
〔サラフィー・ジハード主義者組織〕
アルカーイダ
(アル=カーイダ、アルカイーダ、
アルカイダ)
(アラビア語: القاعدة)
(翻字: al-qāʿidah)(英語: Al-Qaeda)
イスラム主義を掲げるスンナ派ムスリムを主体とした国際テロ組織。
ソ連・アフガン戦争中の1988年、ソ連軍への抵抗運動に参加していたウサーマ・ビン・ラーディンとその同志らによって結成された。
アルカーイダを含むジハード主義組織が使用する旗
1990年代以降、1998年のアメリカ大使館爆破事件や2001年のアメリカ同時多発テロ事件等、アメリカを標的とした数々のテロを実行した。
▼名称
アラビア語で「アル(ال、al)」は定冠詞、「カーイダ(قاعدة、qāʿidah)」は「座る」を意味する動詞「カアダ(قعد, qaʿada)」の派生名詞で「大本」、すなわち「基地・基盤・座」を意味し、英語では「 The Base」、中国語では「基地組織」と訳された。
日本語ではアルカーイダと書かれることも多い。
▼組織
アルカーイダの考え方では実行の分散化は認めるが、意思決定は集中化するように求めている。
しかし対テロ戦争後、アルカーイダの指導部は孤立した。
その結果、アルカーイダの指導権は分散化され、組織は地域化されて幾つかのアルカーイダのグループに分かれた。
多くのテロ専門家は世界的なジハード主義運動がアルカーイダの指導によって推進されているとは考えていない。
しかし、ビン・ラーディンは死ぬ前にイスラーム過激派に対してかなりの思想的影響を及ぼしていた。
専門家らはアルカーイダはいくつかの異なる地域運動に細分化しており、これらのグループは互いにほとんど関係がないと述べている。
この見解は2001年10月のインタビューでにビン・ラーディン自身がタイシール・アッルーニーに対して行った説明とも類似している。
この問題はある特定の個人に関するものではありませんし、アルカーイダという組織に関するものでもありません。
私たちは預言者ムハンマドをリーダーとする1つのイスラーム国家の子供たちであり、私たちの主はただ1人、預言者もただ1人、キブラもただ1つ、国家もただ1つなのです……
真の信者たちはみな兄弟です。ですから、状況は西洋人が思い描いているような、(アルカーイダなど)特定の名前を持つ組織が存在するということではないのです。
その特定の名称(アルカーイダ)はとても古いもので、意図せずして生まれたものです。
兄弟であるアブ・ウバイダ・アル=バンシリは、悪質かつ傲慢で残忍で恐ろしいソビエト帝国と戦うため若者たちを訓練するための軍事基地を作りました。
そしてその場所は訓練「基地」(アルカーイダ)と呼ばれるようになりました。そのようにしてこの名称は生まれ、成立したのです。
私たちは(イスラーム)国家から独立した存在ではありません。私たちは1つの国家の子供たちであり、切り離せない一部なのです。
そして極東から、フィリピン、インドネシア、マレーシア、インド、パキスタン、モーリタニアにまで広がる示威運動とも(切り離すことができない)
……したがって、私たちが論じているのはこの国家における道徳なのです。
●テロリスト・ネットワーク
【アルカーイダと提携している団体】
・アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)
・インド亜大陸のアルカーイダ (AQIS)
・イスラーム・マグリブ諸国の
アル=カーイダ機構 (AQIM)
・アル・シャバブ (ソマリア)
・Jama'at Nasr al-Islam wal Muslimin (JNIM)
・ボスニア・ヘルツェゴビナの
アルカーイダ
・コーカサスとロシアの
アルカーイダ
・ガザのアルカーイダ
・クルディスタンのアルカーイダ
・レバノンのアルカーイダ
・アブー・ハフス・アル=マスリー
殉教旅団
【アルカーイダと無関係な団体】
・タハリール・アル=シャーム
・カフカース首長国 (factions)
・Fatah al-Islam
・イスラム聖戦連合
・ウズベキスタン・イスラム運動
・ジャイシュ=エ=ムハンマド
・ジェマ・イスラミア
・ラシュカレトイバ
・Moroccan Islamic Combatant Group
【以前アルカーイダと
提携していた団体】
・アブ・サヤフ
(2014年にイスラム国に鞍替え)
・Al-Mourabitoun
(2017年にJNIMと合流)
・イラクの聖戦アル=カーイダ組織
(のちのイスラム国)
・アンサール (ナイジェリア)
(2015年に活動停止)
・アンサール・アル・イスラム
(2014年にイスラム国と合流)
・アンサール・アッ=ディーン
(2017年にJNIMに合流)
・イエメン・イスラム聖戦
(のちのアラビア半島のアルカーイダ) ・Jund al-Aqsa (消滅)
・Movement for Oneness and Jihad in West Africa
(2013年にAl-Mulathameenと合流してAl-Mourabitoun)
・Rajah Sulaiman movement(消滅)
▼指導部
ウサーマ・ビン=ラーディンはアル=カーイダの精神的指導者であり、財力を用いて初期の反米闘争の組織を起ち上げた。
アル=カーイダのナンバー2とされていたアイマン・ザワーヒリーはイスラーム神学者。
1986年、二人はサウジアラビアのジッダで初めて会ったとされる。
組織作りや資金集め、組織の代表として声明などを出す役割はビン=ラーディンが担い、テロに関する宗教的な理論面や作戦面は、学識のあるザワーヒリーが担っていたとされる。
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❖アイマン・ザワーヒリー
アイマン・ムハンマド・ラビーウ・
アッ=ザワーヒリー
(アラビア語: أيمن محمد ربيع الظواهري) (エジプト・アラビア語発音: ˈʔæjmæn mæˈħæmmæd ɾɑˈbiːʕ ez.zˤɑˈwɑhɾi), (英:Ayman al-Zawahiri),
[1951年6月19日〜2022年7月31日]
エジプト出身の医師、神学者、テロリスト。
2011年6月から2022年7月に死亡するまでテロ組織アルカーイダの指導者であった人物である。
ウサーマ・ビン・ラーディンの死後、その後継者となり、それ以前はアジア、アフリカ、北米、ヨーロッパでの攻撃を指揮するイスラム主義組織の幹部であった。
2012年には、イスラム教徒に対して、イスラム圏で欧米人を誘拐するよう呼びかけた。
9月11日の同時多発テロの後、米国務省はアイマン・ザワーヒリーの逮捕につながる情報または諜報活動に対して2500万米ドルの報奨金を提供した。
彼は1999年、国連のアルカーイダ制裁委員会により、アルカーイダのメンバーとして世界的な制裁下に置かれた。
2022年7月31日、ザワーヒリーはカブールでアメリカ軍の無人機攻撃により殺害された。
✔プロフィール
生い立ち
1951年に、カイロ郊外のマアーディの中流家族に生まれた。
父は薬学と化学の大学教授で一族で医家を成し、母は政治的に有力な一族の出であった。
また祖父はアズハル大学の著名なイマームであった。
ザワーヒリーは成績優秀で詩歌を好み、争いを好まない穏やかな性格であった。
ザワーヒリーの両親も敬虔ではあるが狂信的なムスリムではなかった。サイイド・クトゥブの思想的影響が広がる中で、叔父の影響を受け、政治やイスラーム主義に関心が向い、14歳でムスリム同胞団に入団。
翌年、クトゥブがエジプト政府に処刑されたためザワーヒリーらは地下活動に移った。
当時、ザワーヒリーは「クトゥブ主義を行動に」とスローガンを記している。カイロ大学医学部に進み心理学と薬学、そして外科医学を専攻し、1974年に卒業するとエジプト陸軍で3年間外科医を務め、その後、実家の傍に開業した。
1978年には修士号も取得、眼科医として卓越した技術を持つ。
その年、カイロ大学で哲学を専攻していた女性と結婚した。
二人は1男5女をもうけた。
その頃にはザワーヒリーらの活動はジハード団に統合されていった。
ジハード団
ザワーヒリーはジハード団でリクルートを担当、軍の将校を引き入れ武器を集めようと奔走した。
1981年にジハード団によってアンワル・アッ=サーダート大統領殺害事件が起こるとザワーヒリーは逮捕された。
この時、拷問を受けたとされる。サーダート大統領殺害の関係を立証されず、ザワーヒリーは違法武器所有罪で禁錮3年の刑を受ける。
アルカーイダ
出所後、ハッジでサウジアラビアに向かい、ジッダに留まり1年間医師として勤めた。
次いでパキスタンのペシャーワルに行き赤新月社で難民の治療に従事した。
またジハード団の再建に動いた。ペシャーワルではアブドゥッラー・アッザームが組織するマクタブ・アル=ヒダマト(MAK)に合流、ウサーマ・ビン・ラーディンに会ったのもこの時である。
MAKが崩壊すると、MAKのムジャーヒディーンはビン・ラーディンをリーダーとしアルカーイダを創設した。
ザワーヒリーはスイス国籍とオランダ国籍の2つの偽名と偽のパスポートを用いて活動、この時期、アルカーイダの副官として密かにイランに接近、イラン革命に倣いエジプトで革命を起こすことを画策した。
1990年代になるとイスラーム原理主義ネットワークを世界的に拡大しようと動き、1993年にはアフガニスタンの子供を助ける基金の募金活動と称してアメリカに入り、カリフォルニア州に滞在した。1995年にはジハード団として、ザワーヒリーはイスラマバードの在パキスタン・エジプト大使館爆破事件を主導した。
1994年以降、ジハード団内部の抗争が激化、ザワーヒリーはスーダンを離れ東アジアや東南アジアを回った。
1996年にはチェチェンに入るがロシア国境を越えたところで逮捕され翌年釈放された。
ザワーヒリーらはアルカーイダの拠点があったアフガニスタンのジャラーラーバードに入り、両者は統合された。
1997年にはイスラム集団が起こしたルクソール事件にも関与した。
この事件でザワーヒリーは1999年にエジプトの軍事法廷で被告人不在のまま死刑判決を受けた。
1998年2月23日、ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線の名前で、ビン・ラーディン連名でファトワーを宣告した。
同年6月24日、ビン・ラーディンと共にアルカーイダの会合を開催した。同年8月、ケニア・タンザニアでアメリカ大使館爆破事件を起こし、この頃から国際的な注目を集めるようになった。
2000年に米艦コール襲撃事件を起こすと、ビン・ラーディンとザワーヒリーはアメリカの報復を逃れるためにアフガニスタンのカーブルに移動した。
アメリカ同時多発テロ事件以降
2001年9月にアフガニスタンのホースト州で目撃されたのを最後に消息不明となり、以後の行方はその後数十年に渡って、分かっていなかった。
ザワーヒリーの妻や子供は2001年のアフガニスタン紛争で米軍の爆撃で死亡した。
ザワーヒリーの死亡の可能性も示唆されていたが、それ以後も今日まで40以上のビデオ声明をインターネット上に出している。
2001年10月、アメリカ連邦捜査局はザワーヒリーを「最重要テロリスト」22名に指名、ビン・ラーディンに次ぐ2位の重要手配犯として2500万ドルの報奨金をザワーヒリーの首に懸けている。
一方でターリバーンは2001年11月にビン・ラーディンとザワーヒリーにアフガニスタンの市民権を公式に与えた。
2008年11月19日には、ウェブサイトにバラク・オバマ米次期大統領に対する声明を発表。
オバマを「ハウス・ニグロ」(この言葉は米国の奴隷制時代に家庭内で家事を行う黒人奴隷を意味しており、家の外で過酷な肉体労働を行う黒人奴隷からは「裏切り者」を意味する言葉である)と呼んだ。
また、「ハウス・ニグロ」という言葉を用いたマルコムXを称賛しながら、現代の「ハウス・ニグロ」としてコリン・パウエル、コンドリーザ・ライス元国務長官の名前も挙げ、「マルコムXがハウス・ニグロについて語ったことが正しいことは、お前たちを見れば一目瞭然だ」と演説した。
声明はアラビア語の音声に英語の字幕が付けられ、米軍をイラクから撤退させアフガニスタンに派遣するというオバマの政策について「失敗すべく運命付けられた政策」と批判し、「アフガニスタンの犬たちは米兵の肉の味を覚えた。
さらに何千もの兵を送るがいい。」と挑発し、オバマの宗教に関して「イスラム教徒の父を持ちながらイスラム教の敵に回り、ユダヤ教の祈りを捧げながら米国で指導者の地位を得るためにキリスト教徒を騙っている。」と非難した。
プリンストン大学のメリッサ・ハリス・レースウェル教授は「アルカーイダが米国で起こっていることに多大な関心を払っている証拠。
国外の人間が、米国のアフリカ系アメリカ人を、その社会でのみ通用する見下した言葉で定義するとは、驚きだ。米国の誰かが中東の政治指導者を『フィールド・モスリム』とあざけったり、ほかの人種や民族、宗教の真正さに疑問を呈するのに等しい」と語った。
音声が本当にザワーヒリーのものか否かは未確認である。
ウサーマ・ビン・ラーディンの死後
2011年5月2日、パキスタンのアボッターバードでアルカーイダの司令官(アミール)であるウサーマ・ビン・ラーディンが米海軍特殊部隊によって殺害された。
アルカーイダの内部規則では司令官が死亡した場合は、その副官が後継の司令官になることが定められており、ザワーヒリーが司令官に任命される可能性が高いとみられていたが、2011年6月16日、新たな指導者として選出された。
司令官には忠誠の誓いをしなければならず、エジプト人であるザワーヒリーに対してサウジやイエメン出身のアルカーイダ幹部の反発も予想される。
ビン・ラーディンがカリスマ性から多くのメンバーを集め、アルカーイダの組織作りを担ってきたのに対して、ザワーヒリーは知識人気取りと傲慢な態度で他のメンバーから疎まれてきた。
また、他のメンバーの些細な信仰上の違いに執着し、エジプトでのジハードを優先しようとするなど、ビン・ラーディンと違ってアルカーイダ内部で常に評価が分かれていたとされる。
また、医師という職業柄か、冷酷ではあっても残虐な行為は好まず、ISISを嫌悪していると言う。
2013年エジプトクーデターにおいて、エジプトでサラフィー主義団体指導者を務めていた弟のムハンマド・ザワーヒリーが、シナイ半島での治安部隊への銃撃に関わったとされギーザで逮捕された。
アメリカ同時多発テロ事件から20年を迎えた2021年9月にはアルカーイダがザワーヒリーの映像をインターネット上に公開し、その中でザワーヒリーはアメリカのアフガニスタンからの撤退にも言及していた。
2022年7月31日にアメリカ軍がカーブルでドローンによる空爆を実施し、その際に隠れ家に潜んでいたザワーヒリーが死亡したことをジョー・バイデン大統領が8月1日に宣言した。
71歳没。
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ビン=ラーディンは1988年に組織を立ち上げてから2011年5月1日に殺害されるまで、アルカーイダの司令官(アミール)を務めていた。
アティーヤ・アブドゥッラフマーンは2011年8月22日に死亡するまで副司令官を務めていたと言われている。
ビン=ラーディンは20~30人のベテランメンバーで構成されたシューラの助言を得ていた。
アイマン・ザワーヒリーはアルカーイダの副司令官を務めてきたが、ビン=ラディンの死後、暫定指揮官のサイフ・アル=アデルに代わり司令官(アミール)に就任した。
2012年6月5日、パキスタンの情報部は副司令官のアブ・ヤヒヤ・アル・リービーを殺害したと発表し、2013年にナシル・アル=ウハイシが副司令官に就任した。ナシルはアラビア半島のアルカーイダ(AQAP)の指導者だったが、2015年6月にアメリカ合衆国の空爆によりイエメンで殺害された。
その後アブ・ハイル・アル・マスリが司令官に就任したが、2017年2月にアメリカ合衆国の空爆によりシリアで殺害された。
2019年7月、ビン=ラディンの息子のハムザ・ビン・ラーディンが死亡していることが明らかになった。
この頃、ザワーヒリーの体調が悪いという説が広まった。
2022年7月31日にはアフガニスタンの首都カーブルの隠れ家に潜んでいたザワーヒリーがアメリカ合衆国の空爆により殺害された。
▼指揮命令系統
アルカーイダは軍事作戦は行っておらず、いくつかの戦闘集団が存在し、攻撃を準備する段階で指導部と相談を行う。
2005年のロンドン同時爆破事件についてアルカーイダが関連している可能性について尋ねられたロンドン警視総監のイアン・ブライアー(Ian Blair)は「アルカーイダは組織ではない。アルカーイダは働き方であり...アプローチの品質証明であり...アルカーイダは訓練を提供したり専門知識を提供する能力を明らかに持っている。
ここで起きたことはそういう事だと思う」と述べた。
2005年8月13日、インデペンデント紙は7月7日の爆弾犯はアルカーイダの首謀者からは独立して行動したと報道した。
911事件の準備段階において4年間オサマ・ビン・ラディンのボディーガードだったナーサル・アル・バフリは当時の集団がどのように機能していたか、アルカーイダの組織的な管理の仕組みや膨大な武器について記憶をもとに詳細に書き記している。
一方、 著作家のAdam Curtisは「アルカーイダ」は2001年に行われたアメリカ大使館爆破事件に関する裁判の過程で作られた用語だと主張している。
現実はビン・ラディンとアイマン・アル・ザワヒリが、新しい戦略に魅了された幻滅したイスラム過激派のゆるい連合の中心になっていたということでした。
しかしそれは組織ではありませんでした。
自分たちで活動の大半を計画し、ビンラディンに資金と支援を求めた過激派が居るだけでした。
ビン・ラディンは彼らの指揮官ではありません。
またビン・ラディンは9月11日の攻撃の後までグループの名前に「アルカーイダ」という用語を使ったという証拠はありません。
アメリカ人がそのように命名したことにビン・ラディンが気づいたので、ビン・ラディンも使用するようになったのです。
2001年の裁判中に、米国司法省はRICO法(組織犯罪)によってビン・ラディンを欠席裁判にかけるために、ビン・ラディンが犯罪組織の指導者であることを示す必要があった。
組織名と詳細な組織構造についてはジャマル・アル・ファドル(Jamal al-Fadl)が証言を行った。
ジャマル・アル・ファドルはグループの創設メンバーであり、ビンラディンに雇用されていたと述べた。
しかしアル・ファドルの証言の信頼性については多くの情報源が疑問を呈した。
彼には不誠実な前歴があり、米軍施設攻撃の共謀罪で有罪判決を受けた後に司法取引の一部として述べた証言だったからである。
アル・ファドルを弁護した弁護人サム・シュミット(Sam Schmidt)は次のように述べている。
アル・ファドルの証言には、私が間違っていると思う部分があります。
彼はアメリカ人が団結できるような構図を支持しました。
彼はこの組織が何であるかについての統一されたイメージについて多くの証言で具体的な嘘をついたと思います。
それはアルカーイダを新たなマフィアか共産主義者にしました。
それによって集団として識別できるようになり、ビン・ラディンが行った行為や声明とアルカーイダを関連付けて、誰でも簡単に訴追できるようになりました。
アル=カーイダの実態は不明点が多く、現在では、アル=カーイダが一つのまとまった組織なのかどうかで議論が分かれる。
CIA元工作員でイスラム主義組織の専門家マーク・セイジマン(Marc Sageman)によると「アル=カーイダとは、軍隊のような明確な階級が存在する指揮命令系統の組織ではなく、人々が自発的に集合する社会運動のようなものであって、明瞭な境界や構成員が存在しない」とする。
特に2001年のアメリカ軍によるアフガニスタン侵攻以降についてはビン=ラーディンの指揮によるものではなく、地域ごとに自発的に集まった人々によってアル=カーイダの名の下に勝手にテロが行われていると指摘した。
また、軍事力は明確なターゲットに対しては有効であるが、アメリカ軍と同盟国によってそれらが破壊され組織が拡散してしまった現在では、軍事力の行使とは異なる対策、すなわち人々が暴力的なテロ運動に参加することを阻止する必要があると指摘した。
▼工作員
適切な軍事訓練を受け、部隊を指揮できる指揮官の数は不明である。
2011年にビンラディンの自宅事務所を襲撃して押収した文書によると、2002年時点で中核となる構成員は170人だった。
その後アルカーイダは2006年時点で40か国に推定数千人の指揮官を潜入させていた。
しかし2009年の時点で活動中の指揮官は200~300人にすぎなかった。
2004年のBBCのドキュメンタリー「The Power of Nightmares」によると、アルカーイダの結びつきは非常に弱いため、ビンラディンと小さな派閥以外は存在しているとは言い難かった。
テロ容疑での多くの容疑者が逮捕されたが、有罪判決を受けたアルカーイダの構成員はとても少なく、アルカーイダという名目を満たすような広範な実体が存在したかどうか疑わしいと報じられた。
▼戦闘部隊
ロバート・キャシディによると、アルカーイダは2006年時点で2つの部隊を維持しており、イラクやパキスタンの地元反乱軍と活動を共にしている。
アルカーイダの戦闘部隊は最初はソビエト・アフガニスタン戦争における「反乱軍として組織され、訓練され、装備された」数万人の兵士だった。
この部隊は主にサウジアラビアやイエメンのムジャヒディンによって構成されており、兵士たちの多くはボスニアやソマリアで世界的なジハードのために戦った。
別の一団は西洋に住んでいて初歩的な戦闘訓練を受けた兵士たちで、2006年の時点で1万人ほどが居た。
▼資金
サウジアラビアの支援
1990年代のアルカーイダはオサマビンラディンの個人財産とヘロイン取引、
クウェートやサウジアラビアその他のイスラム湾岸諸国の支援者からの寄付で資金を賄っていた。
2009年にアメリカ政府内部で「サウジアラビア発のテロ資金は依然として深刻な懸念」という電報を送ったことをウィキリークスが暴露した。
サウジアラビアがアルカーイダを支援しているという最初の証拠は、ボスニア警察が2002年にサラエボで押収したアルカーイダ初期の資金提供者のリスト「ゴールデンチェーン」である。
アルカーイダの亡命者ジャマル・アル・ファドルによって検証された手書きのリストには、寄付者と受益者の両方の名前が記されていた。
オサマ・ビン・ラディンの名前は受益者として7回登場し、寄付者にはアデル・バタジ(Adel Batterjee)やワエル・ハムザ・ジュライダン(Wael Hamza Julaidan)など20人のサウジアラビアと湾岸を拠点とするビジネスマンや政治家が記されていた。
アデル・バタジは2004年に米国財務省によりテロ資金供与者に指定された。
ワエル・ハムザ・ジュライダンはアルカーイダの創設者の一人とみなされている。
2002年にボスニアで押収された文書によると、アルカーイダは慈善団体を大々的に悪用して世界中の工作員に金銭的・物質的な支援を行った。
特にアルカーイダは国際イスラム救援機構(IIRO)とイスラム世界同盟(MWL)という2つの団体を活用した。
IIROは世界中のアルカーイダとつながりを持っており、アルカーイダの副司令官のアイマン・アル・ザワヒリとつながっていた。
ザワヒリの兄弟はアルバニアのIIROに勤務し、アルカーイダのために積極的な人材募集を行っていた。
MWLはアルカーイダの主要資金源である3つの慈善団体の1つだった。
一説によると、ブッシュ家と深い関係にあるサウジアラビア王族のバンダル・ビン・スルターン(又はその背後のサウジアラビア総合情報庁)が、アルカーイダなどの過激派に対して、隣国イラクやシーア派の軍事大国のシリア、イランを弱体化させる目的に影で支援してきたとされ、駐シリアヨルダン大使やイラン、一部のジャーナリスト、学者は、アルカーイダの真の指導者はバンダルであると主張している。
しかしながら2004年の同時多発テロに関する独立委員会の報告書はサウジからアルカーイダへの支援の証拠は見つからなかったと表明している。
▼カタールの支援疑惑
数人のカタール市民がアルカーイダへの資金提供で告発されている。
例えばカタール市民であり、スイスを本拠とする非政府組織(NGO)アルカラマを設立した人権活動家であるアブド・アル・ラーマン・アル・ヌアイミ(Abd Al-Rahman al-Nuaimi)などである。
2013年12月18日、米国財務省はアルカーイダ支援活動により、ヌアイミをテロリスト指定した。
米国財務省によると、ヌアイミは「イラクのアルカーイダとカタールの寄付者を仲介して、イラクのアルカーイダに対する財政支援を手助けした」。
ヌアイミはイラクのアルカーイダに対する毎月200万ドルの資金移動を管理し、イラクのアルカーイダの上級将校とカタール市民の仲介者としての役割を果たしたと非難されている。
ヌアイミはアルカーイダのシリア使節団の団長アブハリド・アルスリ(Abu-Khalid al-Suri)との関係を楽しんでいたとも言われている。
アブハリド・アルスリは2013年にアルカ-イダに対して60万ドルの送金を行った。
ヌアイミはアブド・アル・ワハッブ・ムハンマド「アブド・アル・ラーマン・アル・フメイカーニ」(Abd al-Wahhab Muhammad 'Abd al-Rahman al-Humayqani)とも関連していることが知られている。
フメイカーニはイエメンの政治家で、アルカラマの創始者の一人であり、2013年にアメリカ合衆国財務省が特別指定グローバルテロリスト(SDGT)に指定した人物である。
アメリカ当局はフメイカーニがアルカラマでの地位を悪用して、アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)の代理として資金調達を行ったと主張した。
AQAPの有名人であるヌアイミは、イエメンに拠点を置くAQAP加盟組織への資金流入を手助けしたとも言われている。
ヌアイミは最終的にAQAPに資金を供給するためにフメイカーニが指示した慈善団体に投資したと非難された。
アメリカ合衆国財務省指定の約10か月後、ヌアイミは英国での事業を行うことも制限された。
もう一人のカタール市民はカリファ・モハメッド・トゥルキ・スバイ(Kalifa Mohammed Turki Subayi)である。
2008年6月5日、スバイは「湾岸に拠点を置くアルカーイダの投資家」として米国財務省に制裁された。
2008年、スバイはアルカーイダの上級指導者に対する財政的・物質的支援の提供容疑で国連安全保障理事会の制裁リストにも追加された。
スバイはアルカーイダの新兵を南アジアの訓練キャンプに送り込んだと言われている。
スバイはハリド・シェイク・モハメド(Khalid Sheikh Mohammed)を財政的に支援していた。
9月11日付委員会の報告書によると、ハリドはアメリカ同時多発テロ事件の起案者とされるアルカーイダの上級将校である。
カタール最大のNGOであるカタール・チャリティもアルカーイダの隠れ蓑になっていた。
同団体の元メンバーで、アルカーイダから亡命してきたアル・ファドルが法廷で証言したところによると、カタールチャリティのディレクターのアブドラ・モハメッド・ユセフ(Abdullah Mohammed Yusef)はアルカーイダと民族イスラーム戦線の両方に所属していた。
民族イスラーム戦線はスーダンの政治団体であり、1990年代初頭にオサマ・ビン・ラディンにスーダンの隠れ家を提供していた。
アメリカ合衆国対エナム・M・アーナウトの裁判に提出された文書により、1993年にビン・ラディンがカタール・チャリティは海外のアルカ-イダ工作員への財政的支援を行うために使用される団体の1つだと述べたことが明らかになった。
ビン・ラディンはまたエジプト大統領のホスニー・ムバーラクの暗殺失敗により1995年以前には可能だった慈善団体の悪用が難しくなったと不平を述べたことも明らかになった。
カタール・チャリティがチェチェンのアルカーイダ構成員に財政的支援を与えたことも明らかになった。
しかしハマド・ビン・ナセル・アル・タニ(Hamad bin Nasser al-Thani)はこの告発を公式に否定している。
しかし2013年初頭のフランス軍の軍事諜報報告書でも、カタール・チャリティは北マリのアンサール・ダインに資金を送っていると報告されていた。
カタールは誘拐の身代金の名目でアル=ヌスラ戦線を通じてアルカーイダ系の企業にも資金を供給していた。
テロ資金に対するコンソーシアム(StopTerrorFinance ORG)は、湾岸諸国が2013年以来アル=ヌスラ戦線に資金を提供していると報告している。
アッシャルクル・アウサト紙はカタールが支出した額は2500万ドルに及ぶと推定した。
カタールはアル=ヌスラ戦線に対する募金キャンペーンを行い、アル=ヌスラ戦線もカタールの寄付は主要な寄付の1つと認めた。
〔ウィキペディアより引用〕
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