■アメリカ同時多発テロ事件④
《思想》
イスラム主義過激派運動は、イスラム復興とイラン革命後のイスラム運動の台頭の時期に進展した。
一説によると、エジプトの作家・思想家・ムスリム同胞団の理論的指導者のサイイド・クトゥブの著作がアルカーイダの組織に影響を与えたと言う。
1950年代から1960年代、クトゥブはシャリーア法が欠如しているイスラム世界はもはやイスラム教徒ではなく、ジャヒリヤと言うイスラム以前の無知に戻ったと説いた。
イスラム教を復活するために、クトゥブは「真のイスラム国家」を確立しシャリーアを実装し、イスラム教徒の世界から非イスラム教徒の影響を取り除くために、正しいイスラム教徒の先駆者が必要であると主張した。
クトゥブの見解には、イスラムの敵に「陰謀を企み」、イスラムに反対した「世界のユダヤ人」が含まれていた。
ビン・ラディンの親しい友人であるモハメッド・ジャマル・ハリファの言葉では
●イスラム教は他の宗教とは異なります。それは生き方です。
私たち(ハリファとビンラディン)は、私たちがどのように食べ、誰と結婚し、どのように話すかについてイスラム教がどうしなければならないと言っているかを理解しようとしてきました。
私たちはサイイド・クトゥブを読みました。
彼は私たちの世代に最も影響を与えた人物です。
クトゥブはビンラディンの師であるアイマン・アル・ザワヒリにも影響を与えた。
ザワヒリの叔父で母方の家長であるマフォウズ・アザムはクトゥブの学生であり、被保護者であり、個人的な弁護士であり、そして彼の財産の執行者だった。
アザムは処刑前にクトゥブが生きているのを見た最後の人々の一人だった。
ザワヒリは彼の著作「預言者の旗の下の騎士」でクトゥブに敬意を表した。
クトゥブは多くのイスラム教徒は真のイスラム教徒ではないと主張した。
クトゥブは一部のイスラム教徒は背教者であると主張し、その中にはシャリーア法を執行しないイスラム教徒の国の指導者が含まれていた。
親ソビエト政府に対するアフガニスタンのジハードは、アルカーイダに影響を与えたサラフィストのジハード主義運動をさらに発展させた。
1996年、ビンラディンは「二聖モスクの地を占領する米国人に対するジハード宣言」を行い、アメリカ合衆国やイスラエルに対するジハードを呼び掛けた。
1998年、「ユダヤ人及び十字軍との聖戦のための世界イスラム戦線」の結成文書で、「米国及びその同盟者に対し、軍人、民間人のいずれを標的にすることを問わずジハードを行うことが、それが実行可能なすべてのイスラム教徒にとって義務である」と宣言した。
アルカーイダは「イスラム世界は欧米・ユダヤの「十字軍勢力」によって「侵略・抑圧」されているとの認識の下、イスラム世界を守るため、場所の如何を問わず「十字軍勢力」の権益を打倒しなければならない」というグローバル・ジハード思想を喧伝している。
《起源》
アルカーイダの起源は、1979年12月から1989年2月まで続いたソ連・アフガン戦争(第一次アフガニスタン紛争)に求められる。
この戦争中、アラブ諸国から多数の若者がアフガニスタンを訪れ、アラブ人のムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)としてソ連に対する「ジハード(聖戦)」に参加したが、そのような外国人義勇兵の活動は「マクタブ・アル=ヒダマト (MAK)」等の国際組織によって統率されていた。
MAKは1984年、パレスチナ人のイスラム学者アブドゥッラー・アッザームと、その大学での教え子であったサウジアラビア人ウサーマ・ビン・ラーディンによって、パキスタンのペシャーワルで設立された。
富豪であったビン・ラーディンは、1979年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻の直後からムジャーヒディーンへの金銭的支援を行っており、MAKの活動にも多額の資金を提供した。
MAKの活動にはイスラム集団の精神的指導者であるオマル・アブドッラフマーンやジハード団指導者のアイマン・ザワーヒリーなどが合流し、35000人のムジャーヒディーンが世界各地からアフガニスタンに集まった。
MAKは、ペシャーワルにゲストハウスを設けアフガニスタンのジャラーラーバードなどに軍事訓練キャンプを建設し、ゲリラ戦を主体としてソ連軍と戦うアラブ人ムジャヒディーンを支援した。
なお、米ソ冷戦を背景として、アメリカ中央情報局 (CIA)は「サイクロン作戦」の名の下で、パキスタン軍統合情報局 (ISI)を通じてムジャーヒディーン勢力への資金援助を行ったが、ビン・ラーディンらの組織 (MAK)がアメリカから資金提供を受けたとする報告も存在する。
1988年、ソ連軍がアフガニスタンからの撤退した後も世界各地でジハードを継続することを望むビン・ラーディンとその同志が中心となり、MAKから独立した新組織「アル=カーイダ」を結成した。
ここにおいてアブドゥッラー・アッザームはソ連軍撤退後に勃発したアフガニスタン内戦を最優先するのに対し、経済的な側面での実力者であった弟子のビン=ラーディンは世界各地でのテロ作戦を主張し両者の路線対立が表面化した。
1989年にアブドゥッラー・アッザームは何者かに爆殺されMAK体制は崩壊し、アル=カーイダのメンバーはビン=ラーディンの傘下となった。
ビン=ラーディンはアラブの英雄としてサウジアラビアに帰国した。
1991年に湾岸戦争が勃発し、当時サウジアラビアに帰国していたビン=ラーディンらがムジャーヒディーンによってイラク軍からサウジアラビアを防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王が断り、イスラームの2大聖地であるメッカとマディーナを領有するサウジアラビアがアメリカ軍を常駐させたことは当時ムジャーヒディーン達の反米意識を高めさせた。
1992年、宗教指導者で民族イスラム戦線のハッサン・アル=トゥラビの招きでビン=ラーディンは密かにサウジアラビアを抜け出しスーダンに移った。
スーダンではオマル・アル=バシールのクーデターが成功、ビン=ラーディンはスーダン滞在中に建設事業などを進める一方でアイマン・ザワーヒリーなどと組織を強化した。
しかしテロを続けるアルカーイダはスーダンの厄介者となり、1995年にアイマン・ザワーヒリーはスーダンを離れ世界各地を転々とし、ビン=ラーディンは1996年にアフガニスタンに拠点を移した。
《活動》
◆1990年代
北米
1990年代に始まったアル=カーイダの闘争は、年を追って過激になった。
1993年には、思想的指導者となったオマル・アブドッラフマーンや幹部のハリド・シェイク・モハメド、実行犯ラムジ・ユセフらが、ニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件を引き起こした。
1995年には、ウサーマ・ビン=ラーディンの資金提供元にハリド・シェイク・モハメドが起案し、ラムジ・ユセフが実行する予定だった、アジア各国空港発アメリカ行き旅客機の同時爆破を狙ったボジンカ計画が発覚している。
また、これに続く計画では、小型航空機をシアーズタワーやアメリカ合衆国議会議事堂、ホワイトハウスやCIA本部などに突入させる計画も練られており、これらの計画がアメリカ同時多発テロ事件の原案になっているとされる。
中東
1996年には、在サウジアラビア米軍基地爆破事件を引き起こした。
アフリカ
1998年には、在ケニアと在タンザニアのアメリカ大使館爆破事件 (1998年)を引き起こし、アフガニスタンのターリバーン政権は同年12月に採択された国際連合安全保障理事会決議1214で匿っているテロリストを国際司法機関へ引き渡すよう求められ、1999年の安保理決議1267において、初めてビン=ラーディンとアル=カーイダを名指ししてテロリストの引き渡しが求められた。
アジア
一連のボジンカ計画はフィリピン警察が1995年にマニラにあるアルカーイダのアジトに踏み込んだことにより発覚した。
ボジンカ計画には、東南アジア各国から出発したアメリカ航空機を同時爆破する計画の他にも、フィリピンに訪問したヨハネ・パウロ2世を暗殺する計画も含まれていた。
ボジンカ計画の予行演習としてラムジ・ユセフが実行した1994年のフィリピン航空434便爆破事件では、日本人一人が死亡した。
1997年にはアルカーイダの母体となったイスラム集団がルクソール事件を引き起こし、日本人観光客も死亡している。
◆2000年代前半
北米
2001年にハリド・シェイク・モハメド起案によるアメリカ同時多発テロ事件を引き起こした。
これに対して同年10月にアメリカを中心とした有志連合諸国と北部同盟が不朽の自由作戦を発動し、ビン=ラーディンとアル=カーイダ勢力を匿うターリバーン政権への軍事攻撃を始めたことにより、アフガニスタン紛争が開始された。同年12月にターリバーン政権は打倒され、ハーミド・カルザイ暫定政権が発足した。
これにより、アル=カーイダは資金的・人員的に打撃を受けたとされ、以降、アル=カーイダは個々の組織に分離し、それぞれが個別に活動を行っているとされている。
また2002年の国際連合安全保障理事会決議1390で、ビン=ラーディンとアル=カーイダ関係者とターリバーン幹部らの資産凍結が決定されている。
欧州
2004年3月11日には、マドリード列車爆破テロ事件が発生した。
これに対してアル=カーイダの欧州軍事報道官を名乗る「アブ・ハフス・アル・マスリ隊」がアメリカ同時多発テロを引き合いに出しながらスペイン軍のイラク駐留を十字軍に準えて犯行声明を出した。
このテロ攻撃は総選挙の3日前に実行されたため、選挙結果に決定的な影響を与えることになった。 つまり、アル=カーイダの思惑通り、元々が反戦世論の強かったスペインにおいて、事件直後からイラク政策でアメリカ追従を続けてきた国民党(ホセ・マリア・アスナール政権)に対して国民の批判が殺到、イラク撤退を求める市民のデモが相次ぐことになった。
またイラク駐留を推進するアスナール政権が、事件発生直後からバスク祖国と自由(ETA)による犯行を示唆していたことにより、「イラク撤退を避けるためETA犯行説を捏造したのではないか」と いう国民の不信を招いた。
これに乗じてイラクからの即時撤退を公約に掲げる野党のスペイン社会労働党は国民党を非難、劇的な逆転勝利による政権交代を成し遂げた。
4月16日に首相に選出されたホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロは直後に公約通りにイラクからの撤兵を決定、4月18日から5月までに撤退を完了させた。
2004年12月、ベルリン訪問中のイヤード・アッラーウィーイラク首相の暗殺を試みたラフィク・ヨセフ他2名のテロリストが逮捕される。
2005年7月7日には、ロンドン同時爆破事件が発生し、「欧州の聖戦アルカーイダ組織」名義でイラクとアフガニスタンからの各国軍の撤退を求める犯行声明が出された。
後にこの犯行声明は信憑性が薄いとされたが、同年9月1日にアルカーイダが公式に犯行を認める声明を発表した。
犯行は海外にいるアルカーイダ首謀者の計画によって進められ、イギリス国内のムスリムが実行したものと見られている。
中東
2000年には、イエメン沖の米艦コール襲撃事件を引き起こし、同年の安保理決議1333でも再度、ターリバーン政権に対して、ビン=ラーディンとアル=カーイダを名指しして、テロリストの引き渡しを求めた。
しかしターリバーン政権は、これらの決議に応じなかったため経済制裁を受けた。
2003年末以降、イラク戦争後のアメリカ・イギリスの占領統治下にあるイラクに、アル=カーイダ系テロリストが多数潜入・潜伏した。
2004年春以降、アル=カーイダ系テロリストは、アメリカ人やその同盟国の民間人を標的とした数々の誘拐・殺害事件を実行した。
2004年10月には、その残忍さから世界中に悪名を轟かせているアブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィー率いるアル=カーイダ系のスンナ派武装組織であるイラクの聖戦アル=カーイダ組織がイラク日本人青年殺害事件を引き起こし、日本全土に衝撃を与えた。
同組織は構成員にイラク国外出身者のムジャーヒディーンを多く含み、外国人の首を切断して殺害したり、イラク国内のシーア派住民を無差別に殺害するなどの極端に過激な闘争路線を取っていたことから、他のイラク国内の武装勢力としばしば対立した。
アフガニスタン紛争勃発以後、ビン=ラーディンとアイマン・ザワーヒリーは、アフガニスタンとパキスタンの国境線(デュアランド・ライン)付近のパキスタン領であるカイバル・パクトゥンクワ州や、パキスタン政府の実効支配が限定的にしか及ばない連邦直轄部族地域付近を逃亡中であると考えられていたことから、アメリカ軍はアフガニスタン新政権樹立後も、ビン=ラーディンやアイマン・ザワーヒリーを捕獲し、ターリバーンやアル=カーイダ残党、現地武装勢力を掃討するとの名目で、不朽の自由作戦を継続した。
この戦いは主に、国境を挟んだパキスタン側の連邦直轄部族地域のワジリスタン地域で行われていることから、ワジリスタン紛争とも呼ばれている。
アジア
2000年1月、マレーシアのクアラルンプールでアルカーイダの幹部が会議を開いた。
イスラーム主義組織「ジェマ・イスラミア」(JI)が主導した2002年のバリ島爆弾テロ事件では、アルカーイダ幹部のハリド・シェイク・モハメドらが関与したことが判明しており、ジェマ・イスラミアは2005年にもバリ島爆弾テロ事件を起こしている。
アメリカで逮捕されたアルカーイダ構成員からの証言によると、2002年に日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップでテロ活動を計画したが、日本にイスラム教徒が少なく協力者が得られないなどの理由で白紙化されたという。
また2002年から2003年にかけてにアルカーイダ系組織「ルーベ団」の幹部のアルジェリア系フランス人リオネル・デュモンが偽造旅券で日本へ4回入国し、新潟に潜伏していた事が判明している。
関係して5名の外国人が警視庁等に逮捕された。 2004年10月にはイラクで、イラクの聖戦アルカーイダ組織がイラク日本人青年殺害事件を引き起こしている。
◆2000年代後半
中東
2006年10月には、イラクの聖戦アルカーイダ組織を中心とした5つのスンニ派武装組織が結集して、イラク中部を一方的に自国領土だと主張する過激派の統一機構であるイラク・イスラム国を結成した。
しかし、イラクの聖戦アルカーイダ組織の指導者であったザルカウィと、イラク・イスラム国の指導者であったアブー・ウマル・アル=バグダーディー(首長)、アブ・アイユーブ・アル=マスリ(戦争大臣)は、既にアメリカ軍とイラク治安部隊の合同作戦で死亡しており、現在ではイラク国内のアルカーイダ系勢力は弱体化が進んでいると見られている。
そして、イラク・イスラム国の新たな指導者アブー・バクル・アル=バグダーディーによる新指導体制について、イラクのマリキ首相は「早期に終結させる」と宣言している
アジア
ラシュカレトイバが主導したと見られる2006年のムンバイ列車爆破事件と2008年のムンバイ同時多発テロでもアルカーイダの関与が疑われている。
また、パキスタンで起こった、2007年のパキスタン・モスク立てこもり事件と2008年9月のイスラマバード・マリオット・ホテル爆破テロ事件でもアルカーイダの関与が疑われている。
新疆ウイグル自治区では中華民国時代から、イスラム教徒のウイグル人による東トルキスタン独立運動がある。そのうち東トルキスタンイスラム運動は、中華人民共和国の共産主義政権からの独立を目指すために「あらゆる手段を講じても独立を勝ち取る」と宣言しているが、その中でアルカーイダとの係わりを示唆している。
2008年4月11日の夕刊フジでは、中国政府が中国全土がテロのターゲットになる恐れがあることを懸念していると報じられた。
東トルキスタンイスラム運動は、2008年7月21日に発生した昆明バス爆破事件や、カシュガルで発生した警察に対するテロ事件にも関わっていると見られ、アメリカ、中国両政府からアルカーイダとの強いつながりが疑われる組織として認定されている。
2007年2月、キャンプ座間が迫撃弾により攻撃された際には、米ABCテレビは日本及びパキスタン情報筋の話として日本国内でアルカーイダと関係の深いパキスタン人武装組織によるネットワーク化が進んでいると伝えた。
2007年10月29日、日本外国特派員協会で行われた講演の中で、鳩山邦夫法務大臣が「私の友人の友人がアルカイーダ」と発言し「2、3年前は何度も来日していたようだ」とも語った[95]。現役閣僚の発言として大きな波紋を呼び、のちに一部発言を訂正した。
◆2010年代前半
中東
2010年5月21日にはアル=カーイダのナンバー3でアフガニスタンにおいてアル=カーイダを指揮するサイード・アル=マスリー(別名:ムスタファ・アブ・アル=ヤジド)が、アメリカ軍の無人攻撃機により殺害された。
2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、「アメリカ軍の特殊部隊が、ビン=ラーディンの潜伏先と見られていたイスラマバード北東のアボッターバードにある邸宅で、ビン=ラーディンを殺害した」と、CNNが報道した。
これに関して、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマがCNNの報道直後に声明を発表しており、ビン=ラーディンとされる遺体をアメリカ当局が回収した事、及びDNA鑑定の結果、遺体がビン=ラーディンである事も判明したとされる。
2013年1月、イスラム・マグレブ諸国のアルカーイダ(AQIM)がアルジェリア人質事件を引き起こし、日本人10人が死亡した。
2014年2月、アルカーイダがイラクとレバントのイスラム国(ISIL)と絶縁した。
6月、イラクとレバントのイスラム国(ISIL)がイスラム国家の樹立が宣言した。
アジア
2011年、フィリピンのミンダナオ島やスールー諸島などでアルカーイダ系組織が活動を活発化させた。
2014年6月、フィリピンのバシラン州を拠点とするアブ・サヤフの派閥がイスラム国(ISIL)に鞍替えした。
2014年9月、アルカーイダはインド亜大陸のアルカーイダ(AQIS)を設立し、ミャンマーやバングラデシュ、インド(アッサム州やグジャラート州)、カシミールなどで活動を行うと発表した。
一説によると、これはイスラム国に対する牽制という意味があると言う。
◆2010年代後半
欧州
2015年1月、アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)がシャルリー・エブド襲撃事件を起こした。
中東
2016年7月、ヌスラ戦線がアメリカ合衆国やロシアからの攻撃を避けるためや他の反体制派勢力との統合を進めるために、アルカーイダからの分離を宣言したが、アイマン・ザワーヒリーは分離を拒絶した。
2018年5月の国際連合安全保障理事会のISIL(ダーイシュ)及びアルカーイダ制裁委員会議長から国際連合安全保障理事会議長への書簡によると、パキスタンの連邦直轄部族地域に対する軍事作戦により20のテロリスト集団がアフガニスタンに退避して、ターリバーンにかくまわれている。
その人数はターリバーンと敵対しているイスラム国も含めると1万人~1万5000人に及ぶ。
アフガニスタン内のアルカーイダは265人~400人で、前年の100人~120人と比べると増加している。
アルカーイダはバダフシャーン州やクナル州、ナンガハール州やヌーリスタン州などアフガニスタン東部で増加している。
クナル州やナンガハール州の指導者はアブ・アーフンド(Abu Akhund)というアラブ人で、元はオサマ・ビン・ラディンの相談者だった人物である。
アーフンドは海外から定期的にアフガニスタンに通っている。
オサマビンラディンの息子ハムザ・ビン・ラーディンもパクティーカー州やクナル州、バダフシャーン州のワルデュ郡などに展開している115人のアルカーイダの部隊を海外から統率していると言われている。
アルカーイダはターリバーンの保護の下で、ザーブル州のKhak-e-Afghan郡とDaychopan郡に訓練キャンプを設置している。
またアルカーイダはターリバーンの保護の下で、カンダハール州やウルーズガーン州を経由してヘルマンド州に通行している。
2017年12月、ガズニー州やパクティーカ州、ザーブル州で行われたアルカーイダ掃討作戦でアメリカ合衆国軍はインド亜大陸のアルカーイダの副指導者ウマル・ビン・ハッターブ(Omar bin Khatab)を殺害した。
2019年7月の国際連合安全保障理事会のISIL(ダーイシュ)及びアルカーイダ制裁委員会議長から国際連合安全保障理事会議長への書簡によると、アルカーイダはシリアのイドリブ県やイエメン、ソマリア、西アフリカではイスラム国より優勢である。
またターリバーンの指導部との長年に渡る友好関係により、アフガニスタンはアルカーイダの指導部の安全な隠れ家になっている。
アルカーイダはターリバーンに対する軍事指導や宗教指導を行っている。
アルカーイダはターリバーンのハッカーニ・ネットワークやカシミール地方の分離独立を唱えるラシュカレトイバと協力し、アフガニスタンのタジキスタン国境(バダフシャーン州シグナン郡)やパキスタン国境(パクティーカー州バルマル郡)で存在を強化しようとしている。
アジア
2015年11月、マレー諸島のアルカーイダ(Tandzim Al-Qaeda)に所属するマレーシア人が逮捕された。
12月、シリアのジュンド・アルアクサ(Jund al-Aqsa)に所属するマレーシア人が逮捕された。
2017年9月、アルカーイダはミャンマー軍によるロヒンギャ迫害に対する報復を宣言した。
2019年1月、フィリピンのホロ島のキリスト教の教会で爆発があり18人が死亡した。ホロ島はアブ・サヤフの拠点であり、関与が疑われている。
アフリカ
2019年、アルカーイダはサヘルと西アフリカでイスラム国系の戦闘員と連携して勢力を拡大している。
1月、アル・シャバブ (ソマリア)がケニアホテル襲撃事件を起こした。
〔ウィキペディアより引用〕
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