■大人の事情(都合) ③
大人の都合や気分で
子どもに接する「親の末路」
どんなときも「一貫した態度」
でいることが大切。
▼ムードに流されるお母さんたち
4歳のミホちゃんという女の子がいました。
3時のおやつに大好きな『ぷっちょ』を1個食べたのですが、もっとほしいとお母さんに要求しています。
「さっきあげたでしょう」と言っても、「ちょうだい!」と言って聞きません。
「ちょうだい!」「ダメよ!」。
何度かそんなやりとりが続いたのですが、子どもも負けていません。
そしてこんな言葉を口にしました。 「キーーー、言うよ‼」 金切り声を上げるよ、と言っているのです。
自分が「キーーー‼」と騒げば、お母さんは言うことを聞いてくれる、思いのままにできるという経験をしてきています。
「このお母さん、どうするのかな」と思いつつ見ていたら、「もう……、しょうがないわね、あと1個だけよ」。
そう言ってぷっちょをあげてしまいました。
このお母さんは、ミホちゃんの「キーーー‼」が苦手でした。
とくに外でこの声をだされると、「あの母親は子どものしつけがちゃんとできてない」と思われるのが嫌で、面倒だから、つい言うことを聞いてしまうのだと言います。
その様子を見て、私は言いました。
「情けないね、お母さん」
ところが、別の日はちがいました。
ミホちゃんがぐずって泣いています。
お母さんを見ると、いかにも不機嫌そうで、まとわりつくミホちゃんを無視しています。
そして、「オモチャをとって」と言うミホちゃんに、「うるさい!」と大声をだし、頭をバシッと叩きました。
びっくりしたミホちゃんは、「ギャーー‼」と大泣きし、最後はとうとう「キーーー‼」と金切り声を上げました。
同じお母さんなのに、日によって子どもに対する態度がぜんぜんちがいます。
このように、その日の感情や気分、そのときの都合や事情によって態度がまったく変わってしまうお母さんがじつはたくさんいます。
私流の言い方をすれば、〝ムードに流されている〟のです。
今の日本の親のほとんどが、このようなムードに流される親です。
▼世間に漂う風潮を疑ってみたことがありますか
たとえば、本の読み聞かせや勉強など、教育熱心なお母さんがいます。
しかし、いつもそうなのかといえばちがいます。
自分が遊びたいときは、子どもの勉強などほったらかして、子ども連れで遊びにでかけます。
でも、ふと雑誌やテレビ番組で教育に関する話題を目にしたら、「ちゃんと勉強させなくては」という気持ちが呼び起こされ、また教育熱心な親に変貌します。
子どもに100パーセントで向き合うのは、エネルギーがいります。
自分が元気で、機嫌もよく、余力のあるときは、子どもにやっていいことと駄目なことをきちんと言い聞かせることができます。
そもそもそれができないお母さんもたくさんいますが、子どもに向き合おうとする人もいるにはいます。
しかし、疲れていたり、ほかのことに気をとられて頭がいっぱいのときは、とたんに子どもに向き合うのが面倒になり、適当にあしらったり、自分がラクなほうへ流れてしまうのです。
このように、いつも大人の都合や気分が、行動、判断の基準になってしまっている親が多いのは、じつに嘆かわしいことです。
▼子どもの行動を否定しなければいけない局面もある
そして、私が言うムードとは、親の気分や感情だけではありません。
世間に漂う風潮や論調も含みます。
「ストレスになることは避けたほうがいい」
「子どもの主張はつねに信じてやるべきだ」
「子どもをぜったいに否定してはいけない」
こうしたまちがった考えを信じている親がたくさんいます。
テレビにでているコメンテーターや雑誌などの情報を聞きかじり、真に受けているのです。
そういう情報に触れるたびに、子どもの行動を否定してあげなければいけない局面なのに、「否定しちゃうと、ストレスになるのかな?」 などと、妥協する思いが芽ばえて、揺れます。
おろかなことです。
なぜそうなってしまうのか。答えはかんたんです。その親に、その家庭に、子育てに関する原理・原則[=プリンシプル]がないからです。
子どもと対決するとき、親は金太郎飴のように、どこを切っても同じでなくてはいけないのです。
それも、ゆがんだ顔の金太郎ではなく、りりしい顔の金太郎です。
いつどんなときも、都合や気分にも、世間の風潮にも惑わされず、一貫した態度で子どもに接すること。親に求められるのは、「これだけはわが家の決めごとにしよう」という「ルール」を決め、守る態度です。
先ほどのミホちゃんの例に戻りましょう。
ミホちゃんのお母さんは、本当は甘いものをあまり食べさせたくないのです。
虫歯が心配なので、小さいうちは極力与えないようにしていました。
でも、幼稚園に通うようになって、お友達からもらったぷっちょやグミなどの味を覚えてしまい、ねだるようになりました。
「少しくらいいいだろう」と、一度あげてしまったが最後、毎日ほしがるようになったといいます。
本当ならば、お母さんはぜったいに与えないか、「1個だけ」というルールを貫きとおさなければならなかったのです。
たいていのお母さんは「たかがぷっちょ1個じゃない」と思うかもしれません。
でもその「たかがぷっちょ1個」が、子育てがうまくいくか、いかないかの大きなわかれ道になります。
ミホちゃんは「もう1個ほしい」となれば、「キーーー‼」と金切り声を発します。
でも「キーーー‼」で要求がかなうと、将来、ちょっと気に入らないことがあるとこの声を発し、要求がとおらないとキレる子になってしまいます。
じつはたいへんな問題をはらんでいるのです。
キレて脅しているのですから。
私はこのことをお母さんに説明し、理解してもらいました。
そこでいっしょにこんなルールをつくりました。
▼やってもいいけど、かならず損をさせる
「キーーー‼」を言ったら、ミホちゃんはおやつぬき。
1個だけはあげる予定だったけど、むしろゼロにする。
とにかくこれを守らせること。それをお母さんと約束しました。
ただ、これまで何もルールを決めてこなかった家庭で、いきなりルールのある生活を送るのはたいへんです。
そのお母さんも、「キーーー、言うよ」と脅されたら、どう対処すればいいのかわからないと、不安そうです。
「言いたければ言いなさい、と言えばいいんです」と言うと、「そうなんですか⁉」と驚いた様子です。
「言っていいよ」と言えばいい。
そして「でも言ったら、ぷっちょはなしよ」と言えばいいのです。
今までは「キーーー‼」がお母さんの「弱み」でした。「弱み」をもっていると、子育ては不利になってしまいます。
「やるならやっていいけど、かならず損をさせること」という親の新しい姿勢が大切になります(ただし、体罰は使えません)。
親がこうした姿勢をとったり、かつてとは真逆の姿勢に変わることは、並大抵の努力では足りないでしょう。
親がそのときの気分や都合に流され、子どもに向き合う面倒から逃げないことが大切なのです。
“金太郎飴お母さん”は、このような努力とともにつくられます。
〔情報元 : 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/〕
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
◆子育てに原理原則はあるの?
育児は他人から教わるものじゃない。 誰かの意見や考えではなく、自分なりに試行錯誤して見つけていくものだ、という言葉も目にします。
原理原則っていうのは、 人間が生きていく時に基本になる考え方。 そういうことを一生懸命研究した人がいて、 例えばアタッチメント(愛着)なんかもそうですよね。
そういう現象があるよって。
それが人格形成にものすごく影響してるということを、いろんな角度から研究して、それを発表した人がいるから、アタッチメントの理論を私達も分かって伝えることができるわけでしょ。
そういうものも原理原則ですよね。 それは挙げたらきりがないくらいたくさんある訳です。
で、自分の子育ては他人に邪魔されたくないとか、他人から聞くものじゃないっていうふうに思うのは、私は間違ってると思う。
なぜかと言うと、自分自身を理解することだって難しいでしょ 。
自分自身を上手にコントロールすることだって難しいよね。
ましてや、相手といい関係で、いつもハッピーな環境を作っていくというのは相当難しいでしょ。
夫婦であっても、あるいは友達であっても。
そういう関係性の中には人間関係の原理原則があるわけね。
それを研究してる人がいっぱいいるんだから、そういう情報をちゃんと自分の中に取り入れて「一番ベストな方法は何か」っていうふうに、自分の中に取り入れた上で取捨選択すればいいわけで「これは私にとってはいらない 」という人もいるかもしれないけど、「もしかしたら私の生きていくのにすごく大事な考え方かもしれない」って、そうやって取り入れて自分に役に立てていけばいいわけ。
自分はこう思って立派に育てていると思っても、もしかしたら、うまくいってないかもしれないんですよ。
お母さんの言うとおり聞いて「はい、はい」って、なんでも言う子どもになってるから、それがいいと思ってると、違うでしょ。
だから子育ていうのは、とても難しい営みだと私は思っている 。
人間を育てるということ。 教育もそうだけど。
教育をする人、親として子どもを育てる人の人格とか人間性がものすごく反映されてくるものだから、難しい。
だからもう少し謙虚に、自分のあり方はこれでいいだろうかっていうことを、私は常に常に勉強だと思っているのね。
「一生勉強」っていうのがあって、自分の知らないことを知ることによって生活がより良くなる、 人との関係がうまく作れていく。
そういうことを目指すべきじゃないかな?って思いますけどね。
だから原理原則って言われると、これっていうふうにハッキリ言えないけど。
いろんなたくさんの種類のことがあるから。
例えば、子どもの心理についてもいっぱい実験をやってね。
その結果これは正しいんですよ、子どもの認識ってのはこういうふうに育つんですよとか、子どもの感情はこんな風にコントロールする力ができるんですよとか、色んなことを研究してる人がいるわけね 。
そういう人の知識をちゃんと知って、自分の中の生活に応用していく。
私なんかはそうやって、いろんな人の研究したものを勉強して、自分のものにしてそれを教育に応用して、自分の子育てにもそうしたしね。
教育の中に応用していったわけ。
理論っていうのは、どれにも共通な法則として生まれたものだから、それだけでは機能しないわけよね。
それを実践の中に応用することによって初めてその理論の良さや正しさが分かったりするわけね。
この心理を知らないと、この応用のところがうまくいかないのね。
だから奥深いっていうのは、そういう理論がいっぱいあるからそれを勉強しないと。
専門家はそこを勉強してるから、いろんなアドバイスしたり、実践ができる。
私は自分の子どもを育てたとき、理論は学んだけどどう実践するか、初めてやることだから失敗しながら、これでいいのかなって常に思いながら。
うまくいった例はいっぱい覚えてるけどね 。
でも、うまくいかなかったこともあるし、自分の限界を超えてる状況もあったし、自分にはこういうふうにやりたいと思っても、それができないような状況もあったり。
仕事も育児も、研究もしなきゃいけない、いろんな事頑張ったから余計なんだけど。
だから、もうちょっと子どもに寄り添って、こうしたら良かったかなって思いも今だって残ってるしね。
十分にしてやれなかった部分もあるし。
でも、親は子どものためだけに生きてないのよね。
親は親の生活があって、親の生き方があるわけでしょ。
それを全部犠牲にしてやってはいけないのよ。
そうすると、子どもに全部覆いかぶさるってことになるから、子どもが巣立ったら、もう何もなくなって空虚な生活になっちゃうでしょ。
自分は自分の生活をちゃんと作りなさい。
学校に子どもが行くって、 いってらっしゃい。
お父さんも会社いくって 、いってらっしゃい。 私はこれこれするから 、いってらっしゃい。
自分の世界をちゃんと持ちなさいって、そういう指導を私は大学の教授から受けた。
人に即してばかり、お母さんだからって家族のために全部自分を犠牲にしてやって、家族はそれで幸せかもしれないけど、それがその人の幸せでは決してないって。
お母さんはお母さんの世界を持って、自立しているということによって、経済的に自立しているという意味ではなくてね、心の世界で自立してることによって、子どもと対等に関われる。
子どもが大人になっていた時、子どもが知らない世界をお母さんが持っているんだもん。
お父さんは違う世界を持ってるでしょ。
それぞれが揃って夕食の団欒の時に、その日の経験したことを楽しく話し合う。
そういう家族になったらお互いがみんな伸びていける。
そういう家族を目指すべきですよ、って大学のとき教わったの。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
『大人の事情』について、今一度再考しようと思います。
“大人の事情”の事情というのは諸事情、つまり「都合」の事であり、都合には二つの言葉があります。
それは「好都合」と「不都合」。
使う“大人の事情”の事例としては「好都合」の場合、ほぼほぼ無く、「不都合」に使う事例が主流です。
「好都合」を使う事例としては、無くもないのですが、言葉で言う“サプライズ”があります(場合としては、有難迷惑だったり、叶わなかったりしますが)。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
サプライズ【surprise】 の解説 [名](スル)
1 人を驚かせること。
また、驚き。思いがけない出来事。
「今回の人事に―はなかった」
2 突然の贈り物などで、人を驚き喜ばせること。「記念日に―する」
〔情報元 : goo 辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/〕
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「大人の事情」の違う意味としては「子供には言うべきではない」という解釈で、この言葉でそれを誤魔化す、あるいは濁すという使い方になります。
もうひとつ使い方は、おとなが大人に使う場合、その理由を言ってしまうと関係者や上の立場に当たる人などに迷惑が掛かる為、「とても言えない」という解釈での使い方です。
後述の意味では、おとなが大人に対して使うことになるので、一見、おかしく見えるかも知れません。
そもそも、“大人の事情”の言葉の意味での使い方はスラング的要素が含んでるもので、本来の意味は「子供には~」の方だと言われています。
しかし、元々広辞苑に掲載されているような言葉ではない為、どちらが本来の意味なのかと正しく決まっている訳でもないようです。
その為、人にどちらが正しい意味なのかと無理に聞くことも、説明することも必要はなく、今となってはどちらがそれなのかも怪しくなってきているようです。