紀州七代大彦の木の家づくり日記

「ここちよく美しい暮らしのために」
和歌山大阪にて「一軒一軒ていねいに150年」家づくりに取り組み続けています

《新》どうして家づくり業に携わっているのか。

2015年03月10日 | 大彦7代目=僕の事。

今日は雪なんか降っててびっくらこきましたね。これだけ気候が変わると体調も崩します、廻りにも風邪ひきさんがチラホラです。皆様もくれぐれもお体お気をつけくださいね。

さて、今日はある方から、弊社HP「代表挨拶」のページからリンクされてるBlogが写真が見れなくなってるよ。とお教えいただきまして、すぐに直すとともにちょこっと写真なども変えましたので、ご紹介。自分のことを書くのは気恥ずかしいなんて言いながら紹介するんだから、これまた大変あつかましいわけですが(笑)、まっ一回分の投稿になるということでご容赦くださいませ。

それではどうぞ。

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● 私、野上浩幹(のかみひろき)。

生い立ちと言いますか、何故家づくり業に携わっているのか?

恥ずかしながら少しご紹介させていただきます。

 

老けているとは良く言われますが…

1976年(昭和51年)2月22日(猫の日とのことです)生まれの39歳(2015年現在)

建築(特に住宅建築)、家具、木・土や紙・金属など質感のあるモノ、デザインの良い工業製品などが、たまらなく好きでありまして、それとは別に、歴史小説(特に中国古代史)も目茶目茶好き。話をしろ。と言われれば一晩中でも話せます(誰も頼んでくれませんが)

 


《私の曽祖父4代目の「野上彦五郎」です。昔の写真などほとんどないのですが、これは仕事か何かで皇居を訪れた時に撮っていただいた貴重な記念写真。コートなんか着ていますしね(笑) ちなみにこの「大工棟梁の彦五郎さん」、皆様に「大工の彦さん」と呼ばれておりまして、そこから「大彦」となったわけ。それ以前の「政助さん」「熊楠さん」「安兵衛さん」はそれぞれ自分の名前を屋号にしてたみたいです》

 

● さて、7代続いてるとは言いながら、私の家はあまり男の子が生まれず、婿養子で家業の家づくりを続けてきた家。

祖父や父は、婿養子ではなく「野上」の家の男の子でありますが、その代わり、今度は男の子が生まれると産んだ母親がすぐに亡くなる事が2代続き、そのため4代目(私の曾祖父)が、祖父に毎月初めの神社への月参りを命じ、曾祖父が亡くなってからも、祖父も父もそれを守り続け(今は私にバトンタッチして、もう70年以上続いております)おかげで私が産まれても母親は健在で今も元気元気。

そんな事もあってか、うちの家は大変信心深く(神様・仏様・お地蔵様に)、私も小さい頃から、しょっちゅう神棚などに手を合わせている子供でした。

《毎年「初午」の日の弊社のおまつりの様子》

僕が生まれた時は、祖父は大変喜び、玄翁(カナヅチみたいな、大工さん必須の道具)を買ってくれたのですが、僕はそれでアチコチ叩いて何かを壊してたらしいですから、そもそも大工さんの素質はなかったわけですね(笑)
その祖父に、小さい頃は大変かわいがってもらい、アチコチ祖父の自転車の後ろに乗って連れて行ってもらいました。

そんな祖父にある日「浩幹は大工さんは無理やな~」と言われたのが、小学校に上がる前。

理由は僕の手のひらが「べたついてる」ため。(こちらでは「脂手」など言います)
今は周りの方と比べて、自分の手が特段べたっとしているとは思いませんが、良い仕事をする腕のイイ大工さんは、自分の手の脂で綺麗な木(特に白木)を汚してはだめだから、乾いた手でなければならないのです。

なるほど、うちの棟梁や副棟梁の手はやはり乾いた手をしています。(それでもうちの場合は綺麗な木を扱う時は、白手袋をはめて仕事します)

しかし、今時、乾いた手でなければ大工さんになってはいけない。との法もないと思いますが、大工さんに限らず職人の世界とは、それだけ厳しい一面もあるのですね。

 

 

● 小さい頃は、会社と家が同じで作業場も連続していたため、

朝7時前に大工さんや左官屋さんなどうちの職人さん達が、ぞろぞろと集合してきます。(住みこみの若い見習い大工さんも)

そこで、朝礼をしてから、皆現場に出ていくのですが、その場所にはドラム缶の様なものが置いてあって、冬場はそこで火にあたりながら、皆にこやかに話をしている。その風景がとても印象深く、今も鮮明に覚えています。

稀に雪が降った時などは「ドラム缶からのぼる煙であったまって雪がやむ」などと考え、ドラム缶の火を消して。とお願いして、叱られたりしたものです(笑)

左官職人さんは、そこの火を使って、漆喰のノリになる海藻を煮詰めていました。その独特の匂いが、嫌いで嫌いで。今やそんな古来からの漆喰の造り方はとても価値が出てきたけど、そんな事の知らない僕は、とても漆喰が嫌いでした~(笑)

 

 そんな大工職人さんは皆イイ人で(たまに飲むと酒癖悪い人もいましたが(笑))、よく遊んでもらったものです。

うちの父は、なかなか厳しい人で、あまり遊んでもらった記憶がなく、小さい頃遊んでくれた大人と言えば、大工さんや職人さん。

仕事を終えて皆が帰ってくるのを見計らって作業場にでていって(さもしばらく前からそこに居た様な顔をして)、キャッチボールしてもらったり、休みの日には川や山などに連れて行ってもらったり、ホントかわいがってもらいました。もちろんお年玉も(笑)

そんな大工さんや協力業者の職人さん達も、今では随分お年を召しましたが、今でも現場で働いてくれている方も何人もいます。

そんな人達に偉そうに仕事の文句を言うのもあれだけど、まあその辺は仕事ですし、家づくり現場は真剣勝負だから、たまにケンカしたりもします(笑)

だけど、まあ僕が生まれた時から知ってる(僕が何グラムで生まれてくるか?賭けたんですって。。)人達ですから、基本的にはかわいい様で、別にその場が終わって引きずる事もなく、言う事聞いてくれています。

 

 

 

 

● そんな小さい頃、近所の友達などを家に連れてくると、小さい男の子達には目の輝く光景がうちには広がっていました。

木が一杯。そして鋸やカンナなどの道具達。

 遊ぶな。と言う方が無理ですね(笑)

そんな、色々いたずらをしようとする友達に僕はいつもハラハラ。
だって、うちの父親=「お父ちゃん」は、近所で名物の恐いオヤジだったから。
何人の友達が雷を落とされた事でしょうか。

そんなこんなで、ある日、近所のお兄ちゃん「荒川君」が、うちの作業場で、お得意様の茶室に使う予定の一本○百万(後で聞きました)の床柱に、鋸で傷をつけた!!

僕も荒川君も見事に叱られ、二人とも大泣きをしたわけですが(笑)、

荒川君のお母さんは夜、荒川君から「柱にいたずらして傷をつけちゃった。。」と聞いて、さあ大変。

夜、大変申し訳なさそうに、荒川君を連れて謝りにきたのをよく覚えています。

だけど、うちのお父ちゃんは、決して「その柱」が○百万する床柱だとは言いませんでした。『もうきっちり怒ったからエエよ。子どもの悪戯にわざわざ謝りになんてこなくてええで』なんて。

僕は、その時幼心に、父親を大変尊敬したものです。

気難しくて(今となればその理由は大いに分かるのですが)、とても恐かった父親ですが、時にこういう事をやりよる「味な」お父ちゃんです。(写真は50代半ば位の時のものかな。いわゆる脂ののってた時っていうんでしょうね)

 

● さて、段々小学校・中学校になってまいりますと、自分の家と友達の家の違いがよく分かってきます。

学校から帰ってくると、ランドセルをほって、すぐに遊びに行く様な小学生ではありましたが、たまにその前につかまったりします。。(あまり勉強しろ。とは言われなかったですね~)

学校から帰ってきて家でゆっくりしてると(笑)、何かお呼びがかかる。

「現場」の大工さんへの、ジュースやアイスなどの差し入れをもってたり、連絡を伝えに行ったりの「おつかい」です。

家で居てたって必ず誰かは居るし(大変有難い事なんですがね)、自分の部屋でマンガを読んでたって作業場から木を削る音がずっとしてるし、いつ誰からお手伝い言われるか?だから、ひとつもゆっくりしない(笑)

お父さんがお勤めされている友達の家に行くと、お家には優しそうなお母さんや兄弟が居てるだけ。

静かだし、いきなりアチコチからお手伝い・おつかいを言われる様な事もないし、「何て素晴らしい環境なんだ!」と、心底あこがれたものです(笑)

しかし、将来家づくり業に携わる者としては、逆に僕こそが「何て素晴らしい環境なんだ!」だったのです。

・家づくり現場や大工・職人さんが身近にいて、意識するまでもなく見て肌で感じる。

・素晴らしい建築空間に何の意識もせず身を置いて、感じる。

・風情の良い・素晴らしい材料、木・土・石・紙などが常に隣にあって、触れられる。

例えそういう環境であっても、勉強する気でなければ意味がない。という方もおられるかもしれませんが、やっぱり、今設計をしていると、その頃の原風景というか、それらと一緒に育ったその肌感覚が、どれほど自分に役立っているか。本当によく分かるのです。 

 

● そんな子供のころ、
一体いつから、家業の家づくりを継ぐ事を意識したのでしょうか?

そう考えてみても、、いつか思い出せません。

おそらく、自然に。
確か欧米の有名な建築家がおっしゃってた言葉を借りれば、「サーカスの子供が何の違和感もなくサーカスをやる様に」、僕もそういうのに近いのかなと思います。

そんな意識のまま、普通科の和歌山県立桐蔭高校に入ります。

2年生となれば「文系・理系」の選択がありますから、家業を継ぎたいとは言え、やはり色々考えます。

祖父の言葉もあるから大工さんにはなれない。もありましたが、
「あの暑い中・寒い中現場で必死に働く大工さんのマネは、僕にはできないな~」と。

(なんてグータラなんでしょうね。)

その頃、うちはある建築家と工務店の団体に入った事もあり、日本でも有名な建築家の方にお会いさせてもらう機会があったり、仕事を雑誌などで拝見させてもらう機会が出来、あこがれ、そしてこういう世界もあるのだなと考え…

と言えば聞こえはいいですが、

やっぱりそれよりも正直言って、恐いお父ちゃんに、

『本当に腕の良い大工さん職人さんについてきてもらうには、彼らがマネできない、そして負けた。と思わせるモノをもってなければいけない。エセではなく本物の設計を学ぶ道へ行け!』

との言葉がほとんどです。

しかし、実際初めて見た本物の建築家のお家を拝見させてもらった時、「外からは小さく見えるのに、中はとても広々とのびやかしている空間」や、「明るく落ち着いた何とも心地よい空間」など、大工さんの町屋・数寄屋とはまた違った世界に感動した事も付け加えておきます。

《この様に、うちの父は、工務店のおっちゃんなのに、建築が本当の意味で大好きで、色んな旅館・ホテル・料亭など連れて行ってくれた事も、今では大いに僕の血肉になっております》



● そして、大学。

明治大学理工学部建築学科に入学し、神奈川県の川崎市にて4年間過ごしました。

大学時代は、建築の勉強にそれほど頑張ったわけでもなく、非常に建築を勉強してる同じ学科の友人達の高尚な建築論にもついていけず、と特段述べる事はありませんが(笑)
ただ、そこで出来た友人達は、本当に人生の中でも大切な友達で今でも心から信頼しあえ、直接家づくり業にはつながりませんが、とても良い経験・いい時を過ごさせて貰ったと、親には感謝しております。

また首都圏に居たものですから、色んな建築を見れて体感できた事も大きな財産。
今ではもっと色んなモノを見ておけば良かったな~(時間はたっぷりあるわけですから)とも思いますが、まっそれは今後ボチボチと。


そんな楽しい大学時代の後は、就職。

建築学科の人間は、主に学校で、設計の勉強をするわけですが、そのまま設計でご飯を食べていける世界に入れる人間はあまりいません。

大手ハウスメーカーさんやゼネコンさんが主な就職先ですが、そこで設計部門に入るのは(特にゼネコン)大変狭き門であり、皆は営業や管理部門に就職していきます。
また更に、いわゆるアトリエ系と言われる、本格的にデザインをする設計事務所に入るのは、またそこが雑誌などによく登場する有名な設計事務所になると、本当の本当に狭き門となります(だって、求人など出していませんから)。

ただ、ここもお父ちゃんのおかげで(笑。こうなると全てお父ちゃんのレールに沿って生きてきてますね~。感謝しております。)静岡にある、その世界ではちょっと有名な設計事務所に入れて頂きました。

ここまでは大きな苦労も・失敗もなく、、そんな甘い僕が変えられたのが、ここから。

 

● 僕を入所させてくれた設計事務所は、所長と所員2・3人、計3~4人位の事務所で、ほぼ100%住宅の仕事。

(だけど労働環境がとてもきつく入れ替わりが激しく、所員が僕一人だけになる期間もしばしば。。)

総合的な設計デザインはもちろん、細部のデザイン、構造、設備、見積りのチェック、現場の監理、などつまり一軒のお家を初めから最後まで、お客様と打ち合わせしながら造っていく事務所でした。

《ここで「えっ?」と思った方も多いと思いますが、世の中の設計事務所の中では、こういう所は数で言えばかなりの少数派なのです。ちなみにこういうのがアトリエ系と呼ばれる設計事務所》

仕事は常にかなりあり、

休みはほぼゼロで、しょっちゅう帰るのは深夜。事務所に泊まり込むのもしばしば。

そんでもって給料(と呼べないですが)は、5万円…

ほとんど丁稚奉公に近いですが(笑)、こういう事はアトリエ系設計事務所では珍しい事じゃありません。
もっと高名な建築家の事務所になれば、給料0円で、超一流大学出の優秀な(だから優秀ってわけでもありませんが、まあ一般論で)若い子達が多く働いています。

要は、そこでこれから血肉・財産となる事を色々勉強させてもらうのだから、無給でも喜んで。と言う世界。
《ただ、僕はこういうのはいかんと思います。昔の丁稚奉公は食う・寝るの心配は要らないし、家族のように可愛がってくれるようなこともあったと聞きますが、これはそういう世界じゃありませんからね。》

こんな状況ですから、ほとんど休みもなく、だからそこで遊ぶ相手など出来るわけもなく、時間ができれば眠りたい。

なんて生活を送っていました。

自然と家や建築の事を考える時間が、1日の大半を占め、知らない間に、家・建築が、物凄く好きになっておりました。(とても好き。って位にならなければやってられなかったのかもしれません)

《盆や正月に帰省して、高校・中学時代の友人と話をし、また大学時代の友人と電話などで話をしても、くやしい事に色々楽しい社会人生活を送ってるんですね~(笑)何で僕だけ。なんて思いもしましたが、この修行時代がなければ絶対に今の自分はないですから、感謝感謝であります》

…………………

さて、設計やデザインは、凄く高いレベルは別として、

あるレベルまでは、模倣と経験と訓練で何とかなる。と思います。才能などは関係ないと言えば言い過ぎかもしれませんが、あるレベルまではほとんど関係ないのでは。と思います。

センスは色々イイもの(悪いものも)を一生懸命見ていけば、磨かれてくるし、上手い設計というのも、上手い人の図面を見たり、更に良いのはその設計の家が実現していく過程に身を置ければ、見に付いてくると思います。

その点、やはり最高なのは、センスが良く設計が上手い・凄い方に付いて修行すれば良いのです。(ただ、それに付いて行く修行が大変だし、時間もかかるのですが)

そういう意味では、やはり修行させてもらったのが本当に有難かったわけです。


(僕の修行させてもらった設計事務所が設計した建築ではございませんのであしからず) 

そんな設計事務所時代、

色んな経験もさせてもらったし、失敗もさせてもらったけど、
所長によく言われたのが、『現場での大工さんや職人さんとの付き合い方がとても上手い』って事。

いくら建築家が偉そうにしていたって(偉そうなのにあんまり凄い人いませんが)、現場の大工さんや職人さんの力量なしでは、100%イイものは出来ません。

また図面上では見落としている事(どんなにパーフェクトな図面かいても、そういう事は必ずあります)もあります。

そういう事を現場で助けてもらったり、また基本的に大工さん職人さんに「イイもの造ろう!」と思ってもらえるか?もらえないか?でやはり最終的な仕上がりの差は出来てきます。

それは、工務店であったり、建築会社であったりの監督さんなどの仕事ですが、それが僕は非常に上手い。(監督さんより?)らしいです。

やはりそういう所は「生い立ち」と僕の中に受け継がれてる「棟梁の血」なのかな~なんて。

さて、そんな設計事務所修行。初めは5年の予定でしたが、父親が体調を崩した事もあり、3年に縮めて家へ帰ることとなったのでした。

 

● さて、設計事務所修行から帰ってきた時25歳。

「古株と帰ってきた跡継ぎとの対立」なんて事があれば話は盛り上がるのでしょうが(笑)、そういう事は今までの生い立ちもありますので、全くなく。

また、「設計事務所と工務店の家づくりの進めかたの違い、造るものの違い」、というこれまた一悶着ありそうな所も何もなく。

《というのも、そもそも元々うちの家づくりの進め方が「きちんと打合せをして、そのお施主様の暮らしに合わせてのオーダーメード的」であったわけで、設計事務所さんの進め方とあまり変わらなかったから》

ただ「設計事務所での家づくり」と「大彦の家づくり」で少し違う所は、

「現場、大工・職人さん」との距離感!

もちろん設計事務所でも、大工さんや職人さんを大切にしている所もありますし、現場で教えてもらう事を大事にしている所もあります。(大多数は違うけど、ホンモノの設計事務所さんは大切に考えてくれています。)

が、だからと言って大工・職人さんの生活や仕事の段取りまでは、知った事ではなく、それは立場上至極当然の事です。

また、あくまでも図面によって対価を得てるわけですから、やはりまずは設計事務所内でそれを考えてから、現場に。という順序をとります。

その一方、僕らは大工さん職人さんは身内なわけでして、より距離が近い。

大工さんや職人さんの段取り、気持ち、をより理解していますし、例えば設計段階の初めから、彼らの素晴らしい知恵を活かしたものができるのが「強み」なんですね。



突然、大工さんや職人さんを率いる立場となった事で(率いるどころか助けてもらってばかりですが)、色々なプレッシャーや苦しい事もありましたが、

代々可愛がってもらっているお得意様を初めお客様に助けてもらい、ボチボチやってきております。

《やはり、何よりの財産は「信用」だな。とつくづく感じました。皆様に可愛がって頂ける様に、真面目に仕事を続けてきてくれたご先祖様に感謝感謝、また感謝であります。》

自分で設計し、自分の知ってる人達、「つくること」に誠実・真面目で良いものを造ろうと思ってる人達で造る。

ものづくりの人間からすれば理想的ですし、家づくりに携わる人間としては大変恵まれております。

設計事務所時代よりも、より密接にお客様と関わり、場合によっては他人が知りえないご家族の事(相当深い事)まで聞かせてもらいながら、お客様と一緒に、そして大工・職人さん達と一緒に家づくりしています。

お客様に教えてもらう事はたくさんあって、それが今は新しくどんどん自分の家づくりの力となっていっています。

 ・工事中、大変厳しいお叱りを受けた事も何度かあります。

 ・引き渡し後、2・3年で雨漏りを起こしてしまい、大変ご迷惑をおかけした事も二度あります。

ただ、新築させて貰ってから、リフォームさせて貰ってから、遊びに行けないお家は一軒もありません。

至極当然の事でありますが、実はなかなかそうは行かないのがこの世界。

なんて、それを自慢してる様では、まだまだですが、

世間でよく聞くお客様とのトラブルやクレーム問題などとは無縁で、お客様といい関係を築いて家づくりをする。という当たり前の事は出来ておるのではと思います。

 ・お引き渡しの時に、泣いて下さったお客様も何人かいらっしゃいます。

 ・引き渡した後でも、色々うちの事を思ってアドバイス下さるお客様もいらっしゃいます。

 ・自分の得には何もならないのに、親戚やお友達に真剣に勧めてくれ、一人で6軒も紹介して下さったお客様もいらっしゃいます。

 ・僕に子どもが生まれたと聞いて、わざわざお祝いを届けてくれたお客様も何人もいらっしゃいます。

こういうお客様・お得意様がいらっしゃるのは完全に自慢です(笑)

格好つけた事言うようですが、

やっぱり自分達が一生懸命造った家では「楽しく幸せに暮らしてほしい」というのが何よりの願いです。

だから、車で走っている時うちの家(お客様の家ですが)が近くにあれば、遠周りしてちらっと外から眺めたりもします。

そこで何か楽しく暮らしてくれている様子が見られれば、一番うれしい瞬間。

そして気が小さく慎重な男ですから、何か心配事があれば寝付けなくなります。だから心配事のある様な仕事もしたくないし、そんな家なら建てたくない。というのも本心。

 

 

 

● 帰ってきてから14年(2015年現在)

子どもの頃は、遊んでくれたりする「大工さん職人さんが好き」ばかりでしたが、

やはり一緒に仕事をする様になって、「大工・職人さん」特有の扱いづらさ、自分勝手さに腹が立ったり(笑)嫌らしさに付き合いきれないと思ったこともありますが、、

それもふまえて、仕事が分かる様になって、やはり昔以上に腕の良い大工さんの凄さや大切さを感じております。

なかなか上手く説明できないですが、

腕の良い大工・職人さんが造る家は、「日本の文化・財産」です。

今日本には「当たり前の大工さん」と呼べる人が激減しております。特に20代30代は危機的状況と言っても過言ではありません。(うちは20代前半の社員大工さんが居るので、世間よりは圧倒的にマシですが)

こんなに簡単に、1000年以上伝えられてきた日本の家づくりの根幹を捨て去っていいのか?

今でも街中に多く残る家などの直しやリフォームなどは、一体誰がするのか?(書く人・話す人・格好付ける人がいくら居たって、技術・経験を持った実際手を動かす人が居なくなればどうにもこうにもなりません)

また、せっかく弊社で建てて下さったお家は、何が何でもいつまでも面倒みたい(失礼な言い方ですいません)。

そんな事から、世間に思い切り逆行しておりますが、社員大工制を守り、また若い大工さんの育成にも力を注いで、日本の家づくり・文化も守っていきたいと思っております。

《決して「昔ながら」が全て良いと言ってるわけではありません。ただ、どんなに時代が進もうと、家づくりの根幹は変わりませんし、最終的には造るモノの「手」が大切であろう事は普遍なはずです。》

 

『社員大工を初め優れた職人の手技と、美しく心地よいデザインで、ずっと愛して頂けるお家を、和歌山大阪で造り・直し続けている「家づくり企業」』で、これからもあり続けていきます。



恥ずかしげもなく、自分の事を長々とすいません。

最後までお読みいただきまして、誠に誠にありがとうございます。

 

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(おまけ)

僕には家内と、可愛い娘2人がいます。

オーソドックスな名前がイイとの僕らの希望で、長女は「たまこ」で7歳。次女は「こうこ」で4歳。

長女の漢字は『碧子』次女は『昂子』。

二人とも、うちが代々月参りを続けている神社様の神主様に漢字を考えて貰って、親は大変気に入っておりますが、子どもは大きくなるにつれて、どうでしょうか?読んでもらえるかな?とちょっと心配。

それよりも、このシリーズの一番初めパート1で述べたように、

また女の子が生まれる家に戻っちゃったね~と皆で話しておった際、そうなったら昔の婿養子パターンかなと。(まだまだ早いですが(笑))

そんな中、

誰かが、『「たまこ」が後を継いだら、「たまこの家」で「たまはうす」いや「たまほーむ」だね。』と。

僕はそこで絶句したのでありました。

ちゃんちゃん。 

《「おまけまでお読み頂いてありがとうございます。弊社ホームページに戻るにはコチラ

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