祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

愉しむ

2013-06-26 20:50:22 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

練習を楽しむ

    投稿日:2008年 6月 8日(日)19時58分29秒

返信・引用

 

 

鵲さん
練習自体が楽しいっていいですね。本会では、初心者のうちは新しい技法をどんどん学んでいきますが、熟練者になればなるほど、学んだ物の習熟に時間をかけてもらいますから、それを楽しめる人しか残っていかないのです。
習熟していけることに楽しさを感じることができるというのは一つの才能だと思います。

 

 


功夫と時間

  投稿者:  投稿日:2008年 6月 8日(日)17時44分29秒

返信・引用

 

 

功夫の意味の一つに時間がありますが最近特にそれを感じます。套路や練功法を地道にやっていくなかで体の中が変わっていくのが最近解ってきました。時間はかかりますが自分の中では確実な感覚なので以前に増して練習自体が楽しいです。

 

 


素直さという吸収力

   投稿日:2008年 6月 8日(日)06時30分38秒

返信・引用

 

 

昨日の練習は、欠席届も何人かあったので、参加者は少ないと思っていたら、割合多く来ていただき私も楽しかった。本会では、先輩後輩とか段級だとか、指導員とか格付けは設けていません。拳種にしても本会のレパートリーの範囲であれば何でも学べる。何の規制も強制もありませんから自由です。気楽に皆さんやっていただければ有り難いのです。一方では、本人の自由に任せられますから、学び方は難しいのかな?と思うこともあります。どん欲に吸収していこうと欲張って、あれもこれもとしちゃうと深まらないし、逆に「たんとうしかしない」というのも折角、会の練習で仲間もいるのにもったいない。対練とかもどんどんやってほしい。ちょうどいい加減を見つけるのって時間がかかる。飲み方で自分はこのくらいが定量だなというのを知るには、やはり飲み方の経験をするしかないのと同じかも知れませんね。(ちなみに今度の飲み方は7~8名になりそうです。)
 それから、武術が伸びていく人の大切な条件に、「よく練習する人」というのは絶対だと思いますが、他にも「仲間を大切にする人」というのも大事な条件だなと思います。自分の方が先輩だとか、上だとかといった虚栄心は誰も持っていて当然なのですが、それは、素直に武術を吸収していくことを閉ざしてしまう。本会の人たちは、人数こそ多くはありませんが、幸いにも皆さんよく練習している人たちばかりですから(お世辞じゃなく)それぞれの動きの良さ,練習方法の良さを素直な目で見つめていくと自分もどんどん上達していける。仲間を大事にするには、虚栄心のない素直な目で見つめる、それが自分の上達にもつながっていくことだなと皆さんの向上を見ていて思ったりします。

 

 

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武術の学び方

2013-06-26 20:46:51 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

武術の学び方

   投稿日:2008年 6月22日(日)11時51分3秒

返信・引用

 

 

 武術が上達する人たちは、ある一定の法則がある様に思います。
他の武道、武術をやっている(た)人、他のスポーツをやっている(た)人,運動能力のある人,中国武術に対する知識が豊富な人・・・というのは、それらがない人と比べるとある一定の時期までの吸収が速い。数ヶ月ぐらいまでは「もうこんなに技法を学んだんですね」「上手ですね」という具合になることも多いのです。
 しかし、その学び方は、それ以上の武術的な要求になると吸収していけないことも多いのです。大まかな型や技法を覚えていく初めの数ヶ月から1年ぐらいは、その学び方が進歩が速いのは、「類推する能力」を持っているからだと思います。この技法は「内受け突きだな」「これは太極拳の○○と同じ技だな」「これは○○さんが言っている理論にあてはまるな」とこれまで学んだものをもとに類推する。今学んだ物を、別の物と置き換える作業をする。物事を分析し単純化するので覚えやすいのです。英語を学ぶとすると,英語教師の発音をそのまま発音するのではなく、何言ってんのかよくわかんないから、カタカナに置き換えてから発音するといった方法とよく似ているのだと思います。日本語というこれまで学んで来たことに置き換えると学びやすい、早く単語や文章も覚えられる。筆記試験等では点数がとれる方法だと思います。しかし、そういうテキストから学んでいく方法は、脱却しなければなりません。
ネイティブスピーカー(現地英語が話せる人)の教師を持ったり,友だちを作ったりして,そのままを聞き取り、そのままをまねをする。幼稚でいいからまねをしていると上手くなる。自分の言葉になってくるのは、そのままを、そのまま受け取り、表現していく,そういったまねをすること。それが『まねび」であり、学ぶということだと思う。
武術の型ができていったのは、その「まねび」のとても有効な手段だからだと思います。徹底的にこの「まねび」をしていくこと、その結果出て来た言葉や動きは自分の物になっていく。「まねび」とは、子供たちがそうである様に
ありのままをそのまま受け入れるということだと思う。はじめから、「これは内受け突きだ」とか「○○の動きだ」とか解釈してしまうと明晰で分かりやすく学びやすいと思うかもしれないが、学ぶべき物を狭義に解釈してしまう。
今学んでいる武術を他の武術や理論の「つぎはぎ武術」にしてしまうことは避けなければ、武術そのものを学んでいくことはできない。私たちはいろんな武術のことを知っている武術研究家ではない。あの武術とこの武術はココが似ているとか違っているとかそういうことが目的ではない。(もちろんこういうことが必要でないとかダメだとか言っている訳ではありません。領域が違うといういみでそれはそれで好きな人は楽しめばいいことだと思います。)武術を追求していくとは,その武術を、ありのまま受け取っていく素直な眼差しを持つことが要求されると思う。「黙念師容」とは、師や先達のありのままを受け入れること、だと思います。そういう視点で見ていくと本会のもうすでに何年も練拳されている方たちはくもりなき眼ざしで自ら追求する武術を見つめ、驕りなく、謙虚で素直な学びの姿勢は、すばらしいと思います。近くにそのような尊敬すべき方々がいらっしゃることは、本会の宝だと思います。後輩の人たちはぜひ、彼らから多くの物を学んでいってほしいと思います。

 

 

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