事の起こりは、相方の病気。2000年、持病の腰痛が悪化し、ヘルニアと診断され、手術のために入院した病院で、別の病気が見つかった。手術の後彼は言った。「これからは悔いのないように、好きなことをやって生きていく。」それを聞いた、ぽっとでいじーMCじょにーの言葉は「え?これからは?ほな今まではなんやったんですか?もう充分でしょう。」だった。
幼子を連れてフェスに出かけても、ご飯を作って子どもたちを寝かしつけて、一緒に眠ってしまい気がついたらすべてのステージは終わっていた、なんて経験を何度もして、私も歌いたいなあ、とうずうずしだした頃だった。岐阜・時山のフェスで、古い友人のだんちゃんと喋っていた時、「ようこちゃんもバンドやればいいのに」「やりたいんですけどねえ」「どんな人とやりたいの?」「こんなバンジョーで歌いたい!」と隣にいた彼女を指名したら、「いいですよ」と快諾してくれて、バンドがスタートした。因みにその向こうにいるのは弟(ニセ)の湯水。彼もあちら側へ行ってしまった。
ギター弾きでベースをよく頼まれていた相方だったが、マンドリンを担当することになった。バンジョー弾きの師匠(なのか?)がベーシストとして参加して、デイジーヒルは4人編成のブルーグラスバンドとしてスタートした。
この頃は、写真もたいして撮っていなかったし、自分たちの演奏写真を集めることもしていなかったので、2000年は2枚しかない。こちらは難波アナザードリームでの大阪ブルーグラスナイト
こちらは、ベース弾きが共同で主催する滋賀フェスでのステージ。
我が家の近所の会館で練習を積み、あちこちに出かけては演奏した。翌年の1月は冬フェスに出演。またしてもベース弾きが隠れてる。
宣材写真も撮ってみた。でもなぜかこの年の写真はこれだけしかない。もう少しあるはずなのだけど・・・。
2002年の冬フェス、三人しかいない。
美星フェスには全員で参加した。
機嫌よく続いてたデイジーヒルだが、バンジョー弾きの結婚による転居で、4人編成のブルーグラスバンドは2年ほどで幕を閉じた。これを機に集まりやすく動きやすい2人での活動が始まった・・・はずだったが。
2003年の丹後ブルーグラスフェス、禁じ手の子どもをステージにあげるパターン
8月の宝塚フェスではさすがにふたり、
大阪ブルーグラスナイトお盆スペシャル、スペシャルなので子連れで参加。しかもギターを娘に弾かせて自分はハンドマイクで歌っている。
これは、奈良WICのコンサート、故津田さんと共に。
2004年、レギュラー参加の大阪ブルーグラスナイト。アナザードリームにはいつもとても気持ちいい音を作ってくれる、Y本さんがいた。
ハーベストの丘にも春、秋と出させてもらってたなあ。
美星フェス。この頃は衣装がアロハだったようだ。
6月の音楽の祭日は、WTCのステージ
秋のハーベストの丘。まだ子どもをダシに使っている。でも、何年も後になって、声をかけてくださったお客さまがあった。「以前、お嬢ちゃんたちとやってはったでしょう、いつもほのぼのしてていいなあ、と思って見てたのよ」全く知らない方だったけど、楽しみにして聴きにきてくださっていたそうだ。
2005年の冬フェスも「こざるシスターズ」を連れていた。彼女たちを連れていたおかげで?グラミー受賞者のクリス・シャープと一緒にやらせてもらったこともあったっけ。
これは月例ブルーグラスナイト。紹介してくれているのは世話人A元Sん
数あるフェスの中でも、ここ美星と5月の丹後フェスは、子どもたちが一番ついてきてくれたフェス。どうせ来るなら、出ちゃえ、と上の娘を引っ張り出した。
6月の時山フェス
こんな大舞台にもムスメ、出てたんだね、音楽の祭日。彼女が唯一ギターをずっと弾いている子ども。途中、ドラムとかベースに浮気したけど、そして今は何も弾いていないけど、実家に帰ってきたら、時々鳴らしている。
宝塚でもやってるやん。ほとんど3人ユニットやん。
デイジーヒルのきっかけを作ってくれた、だんちゃんとツーショット。
これで駆け足の5年間。デジカメの写真、2000年から2007年までが飛んでしまっていて、ほとんど残っていない。他の場所にも色々行っていたはずなのに。
でもこの後、バンバン撮るようになるから、次からが長いかもしれない。Vol.1は終了。
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