【067】華厳寺 西国33番
住所 揖斐郡谷汲村徳積23
宗派 天台宗
山号 谷汲山
開山 豊然上人
本尊 十一面観世音
重文 木造毘沙門天立像 木造不動明王像
結願札所。会津の大口大領という人が、近くの文殊堂に参拝した日の夜、夢の中に童子が現れて、榎の霊木が植わっているところを示された。その霊木を取ってきて、京都の仏師に観音像を彫らせた。会津へ運ぶ途中、ここ谷汲山で急に重くなり一歩も動けなくなった。そこで、ここで修行中であった豊然上人のもとを訪れて、堂を建ててもらい観音様を安置した。すると、堂近くの岩穴から油が出てきて明かりに使われたとあります。油を汲むことから谷汲山、十一面観世音に華厳経が写経されていたことから華厳寺となったとあります。
仁王門の仁王像は、運慶の作とあります。御前立ちの十一面観世音の脇侍に重文の毘沙門天と不動明王があります。納経は、ひとりのじいさんが書いています。受付は3人なんですが、書いているのは一人です。不思議です。
参道には、石斛や風蘭、富貴蘭の山野草の店があった。仏具店では、いろいろな仏像も売られていた。手頃な値段かどうかは、分からないが見るだけでも価値があった。
西にミイラで有名な横蔵寺があります。岐阜や東北には即身成仏を願ってミイラになる坊さんがたくさん居ます。しかし、弘法大師にはなれなかった。大師をミイラと呼ぶ人は誰もいません。毎日食事もされていまして、今なお大師さまは生きておられます。ですから、彼らは、たとえ高僧であったとしても所詮単なるミイラなのです。早く荼毘に付して成仏させてあげればいいのにと思います。和歌山那智の補陀洛山寺の歴代住職も補陀洛山を目指して小舟で太平洋に死出の旅に行くのですが、何人かがどこかの海岸にたどり着いて逃げていった坊さんも居るでしょうね。しかし、こちらのミイラはもっと哀れですね。成仏せずこれからもずっと見せ物になるのですから。荼毘に付すために火葬する勇気のある住職も出てこないでしょうね。哀れとしか言いようがないです。
南は、関ヶ原。西に伊吹山と浅井長政の居城。この周辺は、常に戦場だったわけです。それを供養する意味でも谷汲山は、価値のある寺なのです。また、お伊勢参りを終えて西国巡礼し結願、さてさてここから江戸へ戻るか、このまま善光寺まで足を伸ばすか思案する旅人達がこの地にしばらく足を止めたんでしょうか。今も昔も観光ガイドブックを眺め懐具合と相談している姿が思い浮かびますね。
御詠歌
(過去)万世の 願いをここに 納めおく
水は苔より いずる谷汲
(現在)世を照らす 仏のしるし ありければ
まだともしびも消えぬなりけり
(未来)今までは おやとたのみし おいずるを
脱ぎて納むる 美濃の谷汲
山門 本堂
おいずる堂 本堂裏
満願堂 満願狸