禅の永平寺の開祖・道元さんの言葉に有ります。
ああろくでもない🐌
・「愛語(あいご)よく廻天(かいてん)の力あることを学すべきなり」
なんのために?🐛
これは、愛情の有る言葉(愛語)は、天界をも動かすということです。
つまりあまいらは天界を動かしたいがために愛語を唱えていると🐝
つまり、
・天界の力を借りたい時は、愛情の有る言葉を思うことが大切なのです。
悪人らしい思い方ですね(´∀`*)
善人は無意識に愛語を使うが、これを学んだ悪人は意図的に愛語を使う。
悪人は動機が不純なのです🤗
禅ってそういうもんですからね。
本人は愛語のつもりしているが、実は呪文を唱えているだけだったというオチ(´-ω-`)
あ、そう言えば白山ボーは、
「生かしていただいてありがとうございます」を連呼してましたね。
今は「参考にしていただければ幸いです」
宮城のボケは皆様の無事安泰をお祈りします💀
本当に祈ってんのかよ🐻
忙しくてお祈りする暇がありません。
ごめんなさいね~🤪
問題は、自分が苦しい中でも、「愛語」を思えるかどうかが、その人の運命を分けると感じます。
正解。
お前らは余裕のある時はバカ丁寧な愛語を使うが、自分が苦しくなると泣き言を言ってみたり憎まれ口をきいてみたり、
哀語と憎語のお花畑や~☃️
以上のような時も、「この忙しい時にプンプン!」と思っては、自分が損をします。
そういうことをしている相手を、気の毒に思って愛情からの更生を思っています
要するに自分が得したいから相手を気の毒に思うんだろ🦂
自分が損するだけだとも知らずにな🕷️
人を気の毒がってる暇があったら、自分の更生を思えや、こんクソったれ🐰
高く登ろうと思うなら自分の脚を使うことだ。
高い所へは他人によって運ばれてはならない。
人の背中や頭に乗ってはならない。
byニーチェ
いいね👍
他人のパンティを被るのもダメよ🙅♀️
だがよくよく考えてみれば、我々個人は何一つとして、言葉一つですら、無から創り出してはいない。
Youたちはそうでつね🐹
高い山に登るためのその靴もその杖もその防寒着も、かつて誰かが考え長い歴史の中で多くの人達によって粗末なところから育まれたものだ。
ほんでお前は必死こいて、かつて誰かが考えた文章を読んじゃあ知ったかぶりをしていると🐼
それらの道具に対する信頼は間違いなく人間と人間の歴史に対する信頼、決して高みにいたとも限らない名もなき人々への信頼である。(と、死に損ない山登ラーでもある私には思える)
お前、山登ラーなのか🧞♀️
何のために?
まさかのそこに山があるから?🦘
と質問責めラー🧚🏻♀️
人は個として全き存在にはなれない。
なれますよ🍏
逆に集団として全き存在にはなれない。
個として全き存在にならないとハイパーエリートには、な・れ・ま・せ・ん☝🏽
それが自分の脚を使うということなのだよカメムシ君🍎
超人という孤高の妄想が生むのは純粋な孤立のみである。
孤立が生むものはけっきょく破綻と発狂でしか無い。
そもそも超人は全き存在じゃないのだよ山登ラー🫐
超人は人工的に作られたロボット。
トランスフォーマーみたいなやつですわ🍄
仏になるために必死こいてるような連中は、みんなそっち系になるしかない。
これすなわち因・縁・果💀
自己破綻と発狂、
これすなわちカルマの法則☠️