渥美清の俳句
小沢正一の『散りぎわの花』(文春文庫)の中に、渥美清(あつみ・きよし)の俳句が載っていた。渥美清は、ご存知の「フーテンの寅さん」である。
ゆうべの台風どこにいたちょうちょ
何ともいえない優しい句だと思った。
数年前、私の住んでいる町に激しい台風が来たが、そのときのことも思い出した。私たち家族は市営の体育館に避難したのだったが、もしそのときにこの句を読んでいたら、
「ゆんべはたいへんな嵐だったねえ、オレなんかずぶぬれだったよ。河もあふれそうだったもんね。……ところでアンタらは、ゆんべはどこにいたのかね。無事だったのかい。体育館に避難した? ああ、そうかい、そりゃあ良かった!」
と、そんな声をかけられたような気がしただろう。
渥美清の俳句作りはそれまで知らなかったので、まずは小沢正一に感謝。
もっと読みたくなって、インターネットで他の句も探してみた。
赤とんぼじっとしたまま明日どうする
蓑虫(みのむし)こともなげにいきてるふう
げじげじにもあるうぬぼれ生きること
いつも何か探しているようだなひばり
秋の野犬ぽつんと日暮れて
季語を入れて五七五の形に詠む「有季定型(ゆうきていけい)」の句ではない。詠みたいことがほとばしり出てくる句、そんな伝わり方のする句である。俳句は自然の「観察」だけでなく、対象との「対話」でもあるのだろうと思わせてくれる。
生き物を詠んだ句のほかに、人のこころやひとの景色などを詠んだ句もある。
おふくろ見にきてるビリになりたくない白い靴
好きだから強くぶつけた雪合戦
ステテコ女物サンダルのひとパチンコよく入る
お遍路(へんろ)が一列に行く虹の中
芋虫のポトリと落ちて庭しずか
山吹キイロひまわりキイロたくわんキイロで生きるたのしさ
蓋(ふた)あけたような天で九月かな
渥美清の語り口が寅さんの語り口そのものではないが、何とはなくあの高い透明感のある声が聞こえてくるような気がする。まなざしの優しさ、すがすがしさ、スケールの大きさ、そして切なさなどなど、さまざまな声が。
森英介『風天』―渥美清のうた(大空出版)には、こんな句もある。
そば食らう歯のない婆(ひと)や夜の駅
哀愁の漂う情景である。が、わたしには、それ以上に「婆」を「ひと」と読ませる心の優しさ、長く生きてきたひとへの敬意が伝わってくる。「婆(ひと)」だけで感じ入ったのだ。
山頭火(さんとうか)や尾崎放哉(ほうさい)とも似ているといわれるようだが、二人は、まなざしを多く己に注いでいた、一方渥美清は、他に己を投影させていた、と、いまは勝手にその違いを感じている。二人とも好きな俳人だが、たくさん読んでいると、ペーソス以上に生き苦しさが感じられるのだ。
いずれにしても、渥美清の句を読むと、こころが温もりにふうわりとくるまれるのである。
●ご訪問ありがとうございます。
俳句を作っている芸能人は少なくないようです。私が渥美清の句を知ったのは幸運だったと思います。日当たりの部分が世界に広がった気がするのです。